怒は命の発露なのか、東洋医学で考える肝について

東洋医学では、五臓という概念を使っています。
肝心脾肺腎の5つ。その中で肝はとても面白い臓腑です

今回は、生きていることは「動いていること」だという観点から考えてみました。

まるごと一つの人間である私。
指先にまで血液が行き届き、神経が行き届き、生きています。
行き届くことがあり、細胞の一つ一つが新陳代謝をおこなっているため、
命が届いて生きています。

動くことがなくなったら、生きていません。
だから動きがとまると、非常事態、そこに怒りという強い感情が出現して、
危険を回避します。

怒は人間に組み込まれた自然な生きる欲求なのかもしれませんねえ。

その欲求と上手に二人三脚して、人生を豊かにすごしていきたいなあと思います。

さて、考察です。

肝に対する考察

生きていると言うことは、動いているということ。細胞一つ一つも生きていれば動いている。

動いているというのは、代謝して命があるということ。
代謝して命があるということは、血流があることだし、神経も届いているといういこと。

まるごと一つの命の中に、沢山のネットワークがあり、それがつながり、動いていることで生きている。その動いている動きということに、「肝」が大きく関わっている。

動き、動いているということには、①命として当たり前に無意識的に組み込まれているレベル(新陳代謝と言われるレベル)から、②便意、食欲といった、身体の声というレベル、そして③人生を意思を持って生きるというレベルまで様々ある。

肝気がストレスなどとつながりやすく問題となりやすいのは、この①、②、③のレベルの動きが、同時に影響をうけてしまうから。その過剰によっても、不足によっても、「動き」が止まったり、動けなくなったりする。

生きていることは、動いていること。動きが止まることは苦しい。そこに怒りが生まれる。だって生きていられないから。怒りは生きていることに直結する危険信号のような関上なのでコントロールも難しいし、一番コントロールのしがいがあるところ。怒はただのイヤな感情ではない。

写真は京都タワーからみた京都の町、ミニチュアモードです。