備忘:生きる意思をもった人間の存在 肝木の人間観

備忘録:
肝木の人間観、生きる意思をもった人間の存在としての東洋医学的人間観です。

東洋医学では丸ごと一つの存在として人間を把えます。
一本の木にたとえることも多いです。
勉強会で、このテーマで学ぶ機会を得ました。
私自身がイラストレーターさんにお願いして書いていた抱いた図を
改めて他の方が解釈し直しているので、非常に興味深かったです。
なんだか、自分の蒔いた種が育っていく感じですねえ(^^)
私は患者さんを拝見するときに、全体をばぐっと把えることが大切だと思っています。
臨床で体表観察を通して詳細に走りがちになったり、弁証論治をするなかでも細かいところに捕らわれすぎないように『丸ごと一つの存在として診ること』このことを踏み外さないことが大切で、このために使うツールが肝木の身体観です。世の中でよくみる陰陽マークも同じです。生きている人間をばぐっと一つの存在としてとらえるわけです。
だから、この図そのものを解釈したり、この図そのものの肝心脾肺腎を細かく意識するよりも、ざくっと人間を丸ごと一つに把えるということを常に意識して人を診るためのツールであるということが一番のポイントかな。
把えるためにある。
そして把えて、あれこれと詳細になりがちな人間を
丸ごと一つの存在としてとらえるためのイメージグッズとしての
肝木の身体観です。
妊婦さんの体表観察をするなかで、ちょっと意識してみると、あ、これは別の身体観だと思いました。自分の頭あるのは丸ごと一つのイメージだけれど、肝木ではない身体観をもって妊婦さんをみているのだと。常日頃、妊婦さんを多く診ていて、この部分を意識しなかったのですが、『ばぐっと丸ごと一つとしてとらえる』訓練をしておくと、あれこれの人間をみても、肝木や五臓に翻訳することなく、ばぐっと把えることが容易なのかなとも感じました。
肝木の身体観は木をイメージします。植物はとくに四季の変化を人間よりも大きく外的影響を受けるので、その部分がわかりやすいですねえ。多くの山野草は、寒くなると地上部を全部落とし冬の時間をすごします。そして水温む頃になると、頭を出し光と共に成長し、繁殖の流れを生きます。水やりを忘れたり、日照りにあった植物はひっそりと枯れます。人間だったら、ぎゃーぎゃー水クレ~と叫んだり、井戸をほったり、川にくみにいったりと忙しそうですねえ。
また、植物と人間の決定的な差は、『生きる意思』だと感じました。肝木は生きる意思、でも実際の植物には人間のような意図的な生きる意思はなくて、ただ、大地と天空によりそい、その場を動かず、その環境と静かに整合性を取って生きる存在なのかと。
肝木の身体観の真骨頂が生きる意思であり、実際の木にはここがないというのが、肝木の身体観が生きる意思をシンプルに表しやすい秘密なのかなとも夢想しておりました。
生きる意思をもった人間という存在、美しいなあ。
今回はゆっくり考えることができて有難かったです。
非常にたくさんの新しいイメージを膨らませることができました。
実際の臨床の場から、イメージを作り、昇華される物が産まれてくるような予感がしました。