日本初の体外受精の話からの続きです。
ただ、『生殖』というものは、大きな意味で色々なことがおこります。
個人的には不都合なことであっても、大きな種の一員としては自然な
ありようであることもあります。この自然なありようや淘汰の中にある生殖に
手を入れるという畏れ。忘れていけないですね。
『いきなり顕微』という言葉がありました。
聞いたことがあるかたもいらっしゃるかと思います。
私はいままで大きな言葉で体外受精と書いてしまっていますが、
本来は受精方法で表記は違いますね。
採卵して卵子をとったあと、受精方法には振りかけて自然な受精を待つ方法と、技術を使い一つの精子を卵子と受精させる
顕微授精という方法があります。
先日、採卵出来るものの受精せずが何度も続いている方に、
『どうして顕微を選ばないのですか?』と伺ったところ、
『色々検索すると恐いので・・・』と仰っていました。
私はふたつのことを思いました。
それはやはりせっかく採れている卵がもったいないということと、生殖医療に対する畏れです。
ある時期までは、精子に問題を感じても、自然な受精が出来る可能性があれば、まず振りかけによる受精をこころみて、
ダメな場合は次回から顕微授精を選択という流れがありました。
それが、あるときから、最初の採卵から顕微授精を選んでいるカップルが増えてきて、
どうして?と伺うと、せっかく採卵した卵を無駄にしたくないのでというお返事がかえってきて驚きました。
生殖にある、淘汰のプロセスを始めから外してしまっていいのだろうか・・・という畏れです。
しかしながら、私自身、だんだん顕微授精ということになれてしまっているのも事実です。
顕微と体外、なにがちがうんだろう。
結果として生まれた人間は、大きな意味で授かった存在であることには
かわらないのではという思いと、人間の介入はどこあで許されるのだろうかという畏れです。
こちらのサイトで顕微授精のリスクについて丁寧に説明されていました。
そのなかで、
近年の報告では体外受精・胚移植の手技によって赤ちゃんに異常がでるというよりは、体外受精にいたった不妊症カップルのなかにそのような要因があるのではないかと考えられております。しかし、現時点では明確な結論は出ていませんので、今後さらなる検証が必要と思われます。
これはその通りなのかなと感じます。
また、『生殖』そのものが、まったくの自然な経緯であっても、
色々なお子さんが誕生するという幅を持っているという認識は必要だと思います。
商品を買ってくるのとは違います。子供を持つことを『授かる』という言葉で表現する意味は、
私たちがよりよい商品を選ぶのではなく、授けられた子供を預かり成長のプロセスを寄り添うということが子育てなのかなと感じます。
そして、私たちは、親になる覚悟をもって過ごすべきなのだなとも改めて感じました。
私は20代にあれよあれよと妊娠し、出産しました。
ですので、こんなことを考えたことは正直ありませんでした。
そしていま、静かに考えてみれば、子供を授かって成長させるとうことはこんなことなんだなあと思います。
そう考えることで、ストンと納得できることも出来てくるように
思います。
私たちは生きる使命をもって日々を生きているのでしょう。
その使命には子供を預かり成長のお手伝いをするという使命もあるかもしれませんし、
また別の使命もあるかもしれません。
生かされているんだなと思いました。
生殖について考えていると、
だんだん自分がちっぽけな存在で
大きな種としての役割を、小さな小さな私が受け取って
私に出来ることをしているんだなと感じます。