あれこれ思うエッセイ集:

人の器(肉体)と生きる意思(精神)

生きる意思(精神)と、生き方の癖

“分をわきまえる”という言葉があります。

自分を支える物質的基礎である肉体の器としての大きさを御存知でしょうか。意識した事がありますでしょうか。

そしてご自身の精神のあり方の癖を考えたことがありますでしょうか。

車輪の両輪であるこの二つのアンバランスからおきる、身体の症状って案外沢山あります。コツは器の大きさをしり、精神のあり方の癖をしりコントロールするということだと思います。

よくお見かけするのが、精神のあり方の癖が、かなり完璧主義でハードなレベルを要求するけど、器である肉体がそれを支えきれないという方です。

自分自身が命じる課題が、貴方の身体の受け入れレベルを越してはいないでしょうか。精神的には受け入れOK、どんどんいくんだーーー!っと命じても、肉体的には、無理だ、休みたい、これ以上は受け入れ難い!と叫んでいることってよくありますよ。ちょっと点検してみてくださいね。

やる気満々で、旺盛な精神はもっているけど、肉体がついていっていない、また逆にその精神が肉体を食んでいるということもあります。

また、考え方の癖が、非常に神経質で、非常に小さな事を気にする余り、肉体の不調になる方もいらっしゃいます。ちょっとした痛みや症状に、非常に意識を当ててしまうので、より症状が強くなったり、痛みを強く感じるといったことです。こういった方に、意識をしないようにと申し上げても、なかなかムズカシイですねえ。本当に考え方の癖、意識の当て方の癖なのだと思います。

でもね、「ああ、これは自分の癖だな」と、ちょっと意識することからでも、はじめてみませんか。自分の苦しみが、他者からもたらされたものではなく、自分の意識のあり方の癖のせいだと考え直してみてください。そして他者に要求するのではなく、自分がかわることなんだと、意識のあり方を変えてみてはどうでしょうか。きっと、違う世界が開けてくるのではないかと、私は思います。

生きる意志は重荷ですか?

それでは、生き生きとした過敏な精神、旺盛すぎる生きる意思というのは、器としての肉体にとっては、重荷でしかないのでしょうか。

それは違うと思います。

一番わかりやすいのは、お年よりだと思います。

お年よりというのは、器としての肉体はだんだんと小さくなり、壊れやすくなっています。

それなのに、70才になっても、80才になっても、生き生きと生きていらっしゃる方が沢山いらっしゃいます。その方々の中には、もともと、器としての肉体の健康に恵まれているという人もいらっしゃるとは思います。

しかしながら、こんなにきつい身体をしているのに、よくこんなに動けて、楽しんで生活なさっていらっしゃるなあと感心してしまうような方が、私のまわりには沢山いらっしゃいます。

こんな方々が、共通してもっていらっしゃるのは、〃旺盛な生きる意思〃や〃のびやかで、前向きな精神〃だったりします。

この精神のおかげで、崩れかけた肉体が、びしっと支えられ、生きていらっしゃるのです。

まさに、肉体と精神は不可分であり、肉体の器が小さくても、精神が健全であるということはこんなにも大事なのかと、実感させられる時であります。

ただ、こんな状況ですので、お年よりというのは、精神的なショックなどで、がくっと崩れてしまうことがあります。気の張りが取れてしまうと、もろい肉体が前面に出てしまうのです。この点は少し注意がいりますね。

精神の癖を意識して

神経質に物事を考えすぎる

くよくよしすぎる、

人の事が非常に気になる、

否定的に考えがち

完璧にこなさなければ許せない

などなど、その人の、精神のあり方は、非常に個性的です。そこには、よいも、悪いもありません。個性なのだと思います。ただ、もしその精神のあり方の癖が、ご自身にとって結果としてつらいものだとしたら、見直してみるのもひとつの方法だと思います。

精神を支える器としての肉体の大きさを知り、自分の生きる意思としての精神をみつめ、自分が課している課題を点検してみるのもいいと思います。そこから見えてくるものって、とっても面白いのではないかと思います。

鍼灸治療というのは、主としてこの器としての肉体にアプローチしていきます。器のバランスをとったり、また器が大きくなるように援助したりしているのです。器が大きくなったり、バランスがとれてくると、支えられる精神も安定してきます。ただ、より効果的にするには、ご本人も、肉体に対しても養生をし、精神のあり方も考えてみるといいのではないかと思うのです。