カテゴリー : 不妊・婦人科 コラム

不妊治療を終えるとき

5)『不妊治療をやめるとき』

ある方が、『不妊治療をやめようと思うんです』とおっしゃいました。

私はこの方が30代後半からのある年月、体外受精に前向きに取り組み、するべきことはなさり、また身体作りも本当に丁寧になさっていることを知っています。私もここまで努力した彼女に、なぜコウノトリがやってこないのか理由がわかりません。
私は、『やるべきことは全部なさいましたよね、がんばりましたよね』と思わず言葉がでてきました。

赤ちゃんが授からないというのは、どうしてなのでしょうか?

なんら大きな問題もなく、
高度生殖医療の手もしっかりと借り、
充分によいと思われる受精卵を何度も移植して。

それでも妊娠ー出産にいたらないというのはどうしてなのでしょうか?。
何かが足りなかったのか、
何かが障害となっていたのか。
堂々巡りの様に考えてしまうことはいっぱいでてきます。

でも、ときに感じます。何かが問題があったのではなく、
ただ、そういったご縁だけだったということなのかと。
誰が悪いのでも、なにかが足りないのでもなく。
いま、そのときではなかったと。

不妊治療というのは、体外受精がはじまったころから、エンドレスになってしまっています。以前の様に病院やお医者さんが『治療終了ですね』と宣言してくれることがなくなりました。患者側での主体的な決断が求められるのです。

東洋医学的な観点から考えると、妊娠しても、しなくても、その方の身体、人生の中では自然な出来事であるとも考えられます。また、年齢を重ねると妊娠しないのも、何かが悪いのではなく自然の出来事ですね。少しの手助けを高度生殖医療などがしてくれますが、大きな私たちの生命の流れには基本的に逆らえないのだなということも、当たり前なのですが感じます。

沢山の努力をして、
どうしても欲しいと切望して、
がんばって、
がんばったんだけど、
どうしても授からない。

この大きな失望をどうしたら飲み込むことができるのか。
飲み込むことなんかできないとも思います。

私たちは、大いなる生命あふれる自然の中、小さな生命をもらって生きていいます。
そして人生の花を大きく咲かせようとひたむきに努力する存在なのかも知れません。
自分の思ったとおりの花は咲かせることができなくても、人生はやっぱり豊で輝いていて、気がつかないところ、いままでみえなかったところに花は咲いるのかなと感じることがあります。

私の太犬走る庭という庭では沢山の植物を育てています。植物を愛でる時間はとても楽しいです。時に雑草と闘い蚊にやられながらも庭作りで遊んでいます。庭は、ある程度計画性をもって、球根をしこんだり、苗を植えたりすることが必要です。計画同理になった美しさに感動していると、ふと足下に、植えっぱなしにして忘れていた球根から小さな花が咲いていたことに気がついてラッキーと小躍りすることがあります。気持ちがちょっと明るくなって暖かくなるんです。

人生の道の中にはもしかして沢山のラッキーが埋まっていて、私が気がつかないだけなのかもなんても思うのです。あまりに感情が揺れていたり、激しさに打ちのめされているとそのラッキーに気がつけない、みえない。それでも、泣きたいときはやっぱり泣こう。口惜しいときは地団駄踏もう、納得できないときはこたつの中で叫ぼう!!

泣いて、叫んで、地団駄踏んで、ちょっと気がすんで落ち着いたら、まわりをきょろきょろ。そうすると、また違った風景がみえてくるのかもしれません。

うん、私たちは、こうやって生きているだけで、ラッキーがあるんだと私は信じたい。
泣いていると見えないだけ、気がつかないだけ。私たち自分自身が本当は沢山のラッキーをもっていて、持つことを許されているものがたくさんあるということ。

そんな風に私は信じています。
まだまだ人生の道のりは続き、豊かな世界は広がっているはずだから。

今日もまた、私の太犬走る庭は花を咲かせてくれています。
ありがとう。