不妊・婦人科別館:,

終わりに。生命を嗣ぐ生命のリレーをする – 不妊!大作戦(9)

赤ちゃんとめぐりあうためのたびの終わりに

長い赤ちゃんと出会うための旅をなさった患者さんがいらっしゃいます。 14年にわたる旅の後半の3年を私はお付き合いさせていただき、 無事に、赤ちゃんがやってきたという結論をえて、長い長い赤ちゃんと 出会うための旅が終わりました。

かわいいお子さんの写真を拝見し、育児の日々の楽しいメールをいただくと、 不妊時代の、辛い思い出も、悲しい思いでも、すべて、あんなこともあったなあという思い出話になっています。しかしながら、不妊治療の旅の途中には、そんな結論が見えるわけではなく、そのときどき、どうしたらいいんだろう、どうなっていくんだろうという『迷い』の数々でした。

とくに、このご夫婦の旅は長く、

この旅はどこにいくのか? 望むような終着点がくるのかだろうか? ほかの結論にたどり着くのだろうか?

私も一緒に迷い悩みました。 できることを精一杯。でも、精一杯やったはての結論をどう受け止めたらいいのか、 ご夫婦の外側にいる私ですが、とても深く考え込むことが多くありました。

不妊治療の旅、 その終わり方は赤ちゃんを抱いて3人での旅立ちになる場合もあるでしょうし、 おふたりでの新たなる旅立ちにもなる場合もあるかと思います。

旅の途中ではどんな終わり方がくるのかまったく見えません。 この方から、旅の途中でいただいたメールの中の一文が 私の中に深く、深く沈みこんでいます。

『でも向井亜紀と同じ、自分とダンナの血を継いだ子がほしいのよ。

会ってみたいのよ、我が子ってやつに。

抱かせたいのよ、我が子をダンナに。』

我が子という子供に会いたい。 この切実な気持ち。 そのお気持ちに、私がお手伝いをさせていただくことができるということは、なんという有難いことなんだと震えるような気がします。

この位置で、皆さんの旅のパートナーを務めることが許されていることにたいして、私は最善の努力をすべきなんだと強く感じています。日々、勉強を重ね、努力を重ねて、赤ちゃんに出会う旅をなさる方々を見守り続けていきたいと思います。

生命は、リレーされていきます。 私たちの命は、ただひとりで存在しているのではない。 社会の中に生きる私たちは、
生命のリレーに、直接、間接にかかわり、 その社会の一員として生きていくのだと思います。 連なる生命の中の一つの輝きが、私たち一人一人の生命そのものなのでしょう。

社会の中で、生命が嗣ぎ、嗣がれていく。今、私の命があり、社会の中で存在がゆるされているということに感謝の気持ちがわいてくるのを感じます。

ひとりでも多くの赤ちゃんを望む方のお手伝いをさせていただけることに感謝して、 日々の臨床をさせていただいています。

こうのとりが皆さんのもとにやってきますように。

子宮

臍下丹田が体の中心といわれます。 武道などで、構えの中心となる位置である臍下丹田。

女である私の体の中心に『子宮』があります。 女性の臍下丹田は子宮なのです。

子宮は、次の生命をはぐくむ、大事な装置です。 そして、女性にとって、子宮とは、大きな喜びと、大変なリスクをもたらす存在であると思わずにはおれません。

女の存在、子宮の存在

女性には、女性にだけ繋がるRNAがあることを、先般拉致被害者の横田めぐみさんの親子鑑定のときに知りました。

男性の精子は、いつもその場で作られるので、男性に関しては生殖年齢が女性ほど限定されることはありません。それに比べ、女性の生殖年齢は、卵子を生まれながらにもっていることで、本人と同じように年齢を重ねるため、年齢的な限界があります。

女の子は、産声をあげたときに、すでに次の生命につなげるための卵を抱えている。

お母さんから、女の赤ちゃんに繋がる命のリレー。赤ちゃんもすでにリレーをする準備を抱えているという、その重み。

女性だけに許されたこの生命のリレーのために、子宮が用意され、成長し身体が成熟しはじめると、ひとつひとつ卵を妊娠に向けて送り出します。

送り出された、一つの卵は、妊娠をまちます。妊娠が成立しなければ生理となってリセットするわけです。

妊娠する、次の世代をつなぐ。そのために毎月排卵し生理をおこしリセットし、次の妊娠にそなえる。

この意図は、私たちがコントロールできるものではないと感じることが多々あります。

妊娠し、次の世代をつないでいくなかには、当然『淘汰』のシステムもあります。よい状態の卵でなければ妊娠しない。相性があわなくてはダメ、初期の流産などなど。逆らえない淘汰のシステムは、神様の意思でもあるのでしょう。

女性が『不妊』という状態になったときに、非常にあせるのも、この神様の意図なんだと思います。『生命を嗣ぐ』ということが使命になった身体を神様から与えられた私たちは、理屈がどうのこうのいっても、「生命を嗣がなくては」という思いが根源的にこみ上げてくることがあるのだと思います。