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アドラー心理学 7)ライフスタイル

7)ライフスタイル

ライフスタイルとは人生の設計図です。人生という旅をするときに、この自分の設計図にそって、その時々を選択して具体的な行動につながってきます。

ただ、最終的に決めて行動するのは、ライフスタイルではなくて、自分自身。
つまり、もし今ある人生の流れ、自分の選択のありように困った問題があるのならば
ライフスタイルを変更すればよいのです。だって、「私」が「ライフスタイル」を選択してつかっているのです。ライフスタイルの奴隷ではないのですからね。

私は『東洋医学で人を診る』というスタンスです。東洋医学的な生命観で目の前の患者さんを理解します。このときに、その方がどういったライフスタイルをもっているのかなということも東洋医学的な観点から理解しようとします。そして現在の困難を乗り越え、「あらまほしき未来」に向かうにはどうしたらいいのかを考えます。

アドラー心理学でも同じですね。ライフスタイルを分析し、明確にし、ライフスタイルの変更を示唆してくれます。「変える」ことには勇気がいります。その勇気づけのために肝セラーの人が寄り添ってくれます。

私は鍼灸治療を通じて、患者さんがライフスタイルを変更し、新しい一歩を切り開く勇気をもてるように寄り添って行きたいなあと思っています。

さて、もう少しライフスタイルという観点、アドラーはどのように考えているのか、復習をしていきたいと思います。

アドラー心理学6) 課題の分離

6)課題の分離

嫌われる勇気というアドラー心理学を素材にしたドラマがありましたねえ。

そのドラマをみていて、一番違和感を感じるのが「課題の分離」ではなかったのかなと思います。
(もうひとつ、ナチュラルボーンアドラーっても不思議でしたが)

主人公の辣腕刑事のラン子さん。そして新人の青山くん。

青山君が、ラン子さんの元につくことになって、ラン子さんに質問します。

青山君 「なんて呼べばいいですか?」
ラン子さん「それは貴方の課題です、貴方が決めて下さい。」

課題の分離って、このように、「それは誰の課題か?」と明確にすることからスタートです。

私の課題、
貴方の課題、
そして共通の課題。

たとえば、お母さんが子供が勉強しなくて困っていますという問題で悩んでいるときに、誰の課題か?と考えます。

子供の課題は?
 子供が勉強するのは子供の課題ですね。

お母さんの課題は?
 お母さんの課題は「子供が勉強しないことの心配をどうするか」というのが課題です。

お母さんは自分の課題である「心配」を子供を使って解決することは出来ません。だって、自分の課題は自分で解決なのですよ。これが親の自立かな。この問題を子供に相談することで親子の共通の課題にすることは出来ます。)

さてさて、アドラードラマ、確かに課題の分離なんだけど、ラン子さんをなんて呼んだらいいですかという質問に対して、貴方の課題だから貴方が決めて下さいと突っぱねることは課題の分離なんだろうかと疑問がわきますね。二人は仕事のタスクを共有するわけですから、仕事仲間の関係としての人間関係を築くことも大切ではないかと思いました。

だって、もし先輩刑事であるラン子さんを、青山君が、「不思議ちゃん」などと名前をつけてよんだら、そのあともっと大変なことがおこりそうですよね。仕事のタスクを共有する仲間とひとつの場を共有するのですから、先輩のラン子さんは、彼が社会と協調して働きやすくなるにはどうしたらいいのかという観点から、青山君の質問を共通の課題として引き受けてもよいのかと感じました。キチンとした(!)アドレリアンならばどう考えるところでしょうか。

「なんて呼べば良いですか?」
「安藤とよんでくれると嬉しいです」

これでいいんじゃないかなあなどとドラマを見ていて思いました。
ながらく、私の中でブラッシュアップを忘れていたアドラー。
考えるきっかけをこのドラマを通じてもらいました。

アドラー心理学5)子育ての目標と勇気づけ

5)子育ての目標と勇気づけ

アドラー心理学の子育て法は「勇気づけ」という言葉にあらわされるのではないかと思います。

さて、その前に、その行動の目標、つまり子育ての目標を考えなければなりません。

アドラーでは子育ての心理的な目標を2つあげています。

子育ての目標

 1)私は能力がある
 2)人々は私の仲間だ

この2つの目標を達せられるように、子供に対して援助していくことが、勇気づけです。

昔、アドラーの子育て講座に通っていたときに、沢山の課題シートを書きました。
振り返ると、「あーあ、ダメ母だったなあ」と思うことがたくさん。
まあ、それでもあのときは精一杯だったのかな。

課題シートをみていると、お母さんである、私の方が感情むき出しで、怒ったり
相手を操作しようとしています。そして子供の方が譲歩してくれたり。

たとえば、子育てにご褒美は禁物です。褒美を使う望ましくない効果である、「褒美をくれる人がいないと行動しない」なども出てきます。それが課題シートのなかで如実にあらわれているのです。書いてみるとわかりますねえ。

エピソード 長男が10才ぐらいの出来事です。
子供は10時に寝るという約束がありましたが、なかなか守れません。
そこで15日間連続で10時に寝ることが出来たら、ハムスターを飼うという約束をしました。褒美を用いて行動を操作したわけです。

この褒美は功を奏し、15日間連続で寝ることができ、ハムスターを飼いました。

そしてそのあと結局、かれは10時に寝ることができません。
つまり褒美がなくなったので動かなくなってしまったのです。

ありゃりゃですね。

課題シートをみると、もう一度、「夜10時に寝る」ということは誰の課題なのか考え、その合理的な理由を考えてみましょうという再スタートになっています。

子育ては再スタートの繰り返し。
親子で育っていくのですねえ。

それにしても、私の課題シートに出てくる数々のエピソード。
面白くって面白くって。
子育ての思い出です。

娘もなかなか根性があって、いじらしいです。
私もがんばっていたなあなんて思います。

アドラー心理学4) 勇気をもって生きる

4)勇気をもって生きる

アドラーの考え方を実践してみると、そこには、

「自分の人生に責任を持って生きる」

ということを意識するようになってきます。

なにか人生の中で困難な出来事が出来たときに、それを自分が引きとり、引き受ける。
言葉では簡単ですが、とても勇気のいることです。

この困難な出来事にであって、「かわいそうな私」であれば、
弱いかわいそうな私に責任がとれるはずもない。

「悪いあの人」が悪いのだから、私は責任を取らなくてもいいという選択をしていれば、
自分が引き受けて責任をもって生きる必要はありません。

でも、もし、その困難な出来事を乗り越え、

 「これからどうするか?」という人生の目的を考えたのならば、

私は、その選択に自分で責任を持つわけです。

責任をもつ、顛末を自分が引き受ける。
そんな一歩を踏み出すのはとても勇気が必要です。
だって、いままでは、

かわいそうな無力な私であったのでそうなってしまっていたのですし、
悪いあの人がそうさせていたのだから、責任を引き受ける必要がなかったのです。

「イライラしていたから、コーヒーを飲みすぎて眠れませんでした」

このエピソード、私の行動の目的はなんでしょうか?

行動の目的はコーヒーを沢山飲むことです。
その結果は眠れなかった。

イライラしていたからとか、理由(原因)を考えるのは棚上げしてみましょう。
そして自分の行動の目的を知り、顛末を引き受けるのかどうか決めましょう。

私はイライラという感情を使って沢山コーヒーを飲んだ。

その結果眠れなかったわけです。

もし、結果を変えたければ、「自分の選択」を代えればよいのです。
主人公は自分ですからね。

勇気を持って「変える」
いままでの自分の選択パターンから「変わる」

いつもの使い慣れたパターンというのは、多少の不具合があっても、使い勝手がよく安心感があります。でも、一歩前に出ることが出来ない。

勇気をもって、変えてみましょう。

あなたには、自分の人生を変える「能力」があります。
しっかりと引き受ける「力」があります。

いままで選んだことのなかった方法や生活スタイルであれば
ちょっぴり勇気が必要なのかもしれませんね。

私たちの人生、幸せになる勇気をもって歩きたいです。

アドラー心理学3) 「感情」を使う、主人公は私 

3)「感情」を使う

「イライラしていたから、コーヒーを飲みすぎて眠れませんでした」

はてさて、これは「イライラ」という感情が、私をコーヒーを何杯も飲ませた結果、眠れなかったのでしょうか?

このお話の主人公は感情です。そして感情という主が、私という奴隷にコーヒーを何杯も飲ませたので、感情の奴隷である私は眠れなくなってしまったという被害者のお話しです。眠れなくなったことの責任者は感情ですので、私は無力でかわいそうな存在です。

 主人公:感情
 奴隷 :私
 行為の結末:眠れなくなった。
 責任者:感情

さて、ここで、主人公を変えましょう、主人公は私で感情という奴隷を使うのです。

 主人公:私
 奴隷 :感情
 行為の結末:眠れなくなった。
 責任者:私

行為の結末はかわりません。眠れなくなったということです。
しかしながら、主人公は私です。私が感情を使ってコーヒーを何杯も飲んだので、結果として眠れなくなったわけです。責任者は感情を使った私にあります。決して感情ではありません。

「感情」が主人公であれば、無力でかわいそうな私です。何も責任を取る必要はありません。しかしながら、「私」が主人公であれば、その責任は私にあります。そして感情の使い方を変えることもできるのです。

 そう、私たちは感情を使っているのです。

だから、感情の奴隷とならず、感情を使用する責任者として立ち位置を変えましょう。

これはとても勇気のいることです。だって、私が感情を使うわけですから、当然起こった結果については責任を取らなければならないのです。

アドラーの考え方は、「自分が責任を取る」という点がとても新鮮で厳しいです。
「感情に支配されたかわいそうな私」でいることを許してくれません。

感情は私たちの生活を豊かに前向きにしてくれるものでもあり、思いとどまらせ、あきらめさせるものでもあります。上手に感情とつきあっていきたいものです。

私たちは自分の人生を歩まなければならない。どのようなことであれ、
前をむいて、勇気をもって歩む。自分のおこした責任をしっかりと取る。勇気がいるけど、そこには自立したすがすがしい貴方がいると私は思うのです。