東洋医学から見た人間観察」カテゴリーアーカイブ

解剖学は面白い

解剖学は面白い

「解剖学って面白い。」
そう思ったのは、鍼灸学校の学生だった頃でした。

ただただ「学べること」が楽しくて、毎日学校へ通っていたあの頃。

解剖学、生理学、病理学。

鍼灸学校は国家試験合格を目標とする学校なので、授業は東洋医学だけでなく西洋医学寄りの内容が中心でした。このあたりは、学校や目指すものによってずいぶん印象が違うのかもしれません。

私は「将来こうなりたい」という明確な目標があったわけではありません。ただ、自転車で10分、子どもを二人育てながらでも通える場所だったことがきっかけでした。

でも、そこで待っていたのは学びの宝庫。毎日が本当に楽しかったことを今でも覚えています。

ドストライクだった解剖学

その中でも、私にとって一番面白かったのが解剖学でした。

教科書はほぼ丸暗記状態。特に筋肉、骨、関節が大好きで、筋肉の名前を聞けば起始停止や関節の動きまでスラスラと言えていたほどです。

……今では、その記憶もどこへやら(笑)。
情けないくらい忘れてしまいました。

臨床に出ると見え方が変わる

実際に臨床の現場へ出ると、「知識としての解剖学」は少し遠い存在になりました。

必要なときに本を開いて確認する程度。あれほど覚えていた起始停止も、今では思い出せないことがほとんどです。

美術解剖学との出会い

そんな私ですが、先日ご縁があって「美術解剖学」のセミナーに参加させていただきました。

これは「描く人」のための解剖学。医療のための解剖学とは視点が違い、とても新鮮な世界でした。

骨盤は男女でこんなにも形が違う。筋肉のつき方も違う。

そして、骨盤が少し前傾・後傾するだけで肩の位置が変わり、頭の位置が変わり、腕の位置まで自然と変化していく。

身体は一つひとつが独立しているのではなく、全身がつながり合って動いている。その絶妙なバランスに、人間の身体の美しさを改めて感じました。

「正しい姿勢」だけではない

人間観察という意味でも、大きな学びがありました。

私はもう婆さんなので(笑)、婆さんには婆さんなりの身体の形があります。

いわゆる「正しい姿勢」だけが正解ではなく、その人の生活や積み重ね、その人自身の身体の歴史が、その人らしい姿を作っている。

そんなことを感じた時間でもありました。

歩き方ひとつとっても、男女では筋肉の使い方が違う。

骨盤の傾きひとつで、全身の印象が変わる。

人の身体って、本当によくできていますね。

やっぱり解剖学は面白い

何がそんなに面白いのか、と聞かれると説明は難しいのですが(笑)。

生理学や病理学とは少し違い、「目で見える事実」があり、それが動きとしてつながっている。

だから惹かれるのかもしれません。

世の中には、面白いこと、楽しいことがたくさんあります。

美術解剖学も、その一つ。

いくつになっても「面白い」と思える学びに出会えることは、とても幸せなことですね。

セミナーでは実際にスケッチを描く時間もありました。骨盤の傾きと身体全体のバランスを観察しながら描いた一枚です。

美術解剖学セミナーで描いたスケッチ

セミナー中に描いたスケッチ。骨盤の傾きと全身のバランスを観察しながら描いてみました。

鍼灸院の謎② 私はなぜ整体師ではなく鍼灸師になったのか?

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鍼灸院の謎② 私はなぜ整体師ではなく鍼灸師になったのか?

整体の世界で、「理論と技術は別物だ」ということを痛感した私は、その後思いがけないご縁に出会いました。

当時、鍼灸院で弟子入りしていた友人から、

「いま、うちで弟子を募集しているよ」

と声をかけられたのです。

当時の自宅から自転車で10分。
近い。

私は面接を受け、そのまま弟子入りすることになりました。

見たことも聞いたこともない世界

弟子入りしてまず驚いたのは、そこが「鍼灸だけ」で成り立っている治療院だったことです。

先生は腹診をし、鍼を打ち、お灸の指示を出します。

弟子たちは黙々とお灸をすえる。

患者さんは定期的に通い、身体のメンテナンスを受けている。

私は驚きました。

それまでの私は、「鍼灸は症状を治すもの」というイメージしか持っていなかったからです。

ところが目の前では、身体を整えるために鍼灸を受け続けている人たちがいる。

鍼灸って、こういう使い方をするものなのか。

私にとっては新しい発見でした。

大学病院というもう一つの世界

その後、私は東海大学大磯病院東洋医学科の研修生になります。

ここは弟子入り先とはまったく違う世界でした。

病院では医師と一緒に患者さんを診ます。

整形外科から紹介される方もいれば、精神科から紹介される方もいらっしゃいました。

私が担当した患者さんの中には、脳卒中後の片麻痺の方もいらっしゃいました。

最初は恐る恐るでした。

それでもカルテを読み、方針を立て、自分なりに鍼灸を行いました。

すると血圧が安定し、便通が改善し、体調が整っていく。

片麻痺そのものの改善よりも、体調が整い、毎日の生活が楽になることを患者さんは喜んでくださいました。

私はその時、

「ああ、鍼灸って面白い」

と思ったのです。

症状を狙うのではなく、

「生きていること」

そのものを応援する。

そんな医療の形があるのだと知りました。

私がやりたかったこと

整体の世界では、名人の技術に圧倒されました。

弟子入り先では、鍼灸による身体のメンテナンスを知りました。

大学病院では、病気を抱えた方々の生活を支える鍼灸を経験しました。

その中で少しずつ、

「私はこんな鍼灸をしたい」

という形が見えてきました。

症状だけを見るのではなく、その人全体を見る。

病気だけではなく、その人の暮らしや体調の変化にも目を向ける。

そんな鍼灸です。

いま振り返ると、この頃に現在の私の鍼灸の原型ができたのかもしれません。

(次回へ続く)

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どこのツボをつかうかー経穴の属人性

選穴の属人性

先日、アールデコ展という、100年前の1925年パリ博覧会をきっかけに広まったデザイン様式の展示を見ました。女性の身体解放と新しい時代の価値観を象徴する服飾の変化が紹介されていて、ぎゅっとウエストを締め付けるドレスから、ざくっと身体が解放されるデザインへと移り変わっていく様子に、へえ、服って時代の価値観を表すものなのねえと感心しました。

ふと、これは概念や価値観、理論があって、その先の具体的な表現として各々の「服」があるということなのかな、と非常にわかりやすくイメージできました。

■名人の技

患者さんから、昔通っていた鍼灸院の話を聞くことがあります。そうすると、名人の先生はやっぱり鍼が上手い、効かせるんですよね。すごく面白くて、つい聞き惚れてしまいます。

先般参加させていただいたセミナーでは、表裏の組み合わせ一覧表を示しながら具体的な選穴の説明がありました。例えば、肘の曲池付近に症状がある場合、手陽明(大腸)ー足陽明(胃)の表裏関係、さらに臓腑の表裏で胃→脾とつなげて、脾経の膝にある陰陵泉を取穴する、というような説明です。

なるほど、取穴とはこういうシステムを使うのだなと理解でき、選穴って洋服の組み合わせみたいで面白いなあと思いながら聞いていました。

そして実技。説明を踏まえた実技のあと、くるっと後ろを向いて振り返り、そのまま選穴。驚いていると「うん、どこでもいいんだよ!」と。

理論を踏まえた上で、理論を超越して「どこでもいい」。

ううううううううううう〜。

どこでもいい……。

後ろの方で誰かが、「それを言っちゃあおしまいでしょ・・・」と

呟きました。

みんなで苦笑

■理論と選穴の属人性

人間の身体は丸ごと一つの存在であり、様々なネットワークでつながり構成されているとも考えられます。東洋医学の理論は、そのネットワークをそれぞれの視点から説明しているものとも言えます。陽明の表裏や臓腑の表裏もその一つです。

ネットワークや構造を踏まえた選穴は、理論をそのまま具体化しており、標準化が高く、誰でも理解し選穴できるスタイルです。

しかし「どこでもいい」という言葉は、理論を踏まえたとしても、最終的には鍼を打つ人の望聞問切を含めた言語化されない技量に依存する部分がある、ということを示しているのかもしれません。名人先生の選穴は、一般の人から見れば理論を超越し、どこでも効かせられてしまう技に見えるでしょう。患者さんにとっては「効く」ことが重要ですが、学びたい人にとっては言語化されていない「名人の技」は、弟子入りでもしないと学び得ない領域なのかなとも思いました。

つまり、属人性の高い選穴が「名人の技」なのかもしれない、と感じたのです。

■学んでいくということ

学校で学んだことなんて役に立たない、というセリフをよく聞きます。数学や国語、理科や歴史なんて社会に出たら意味がないと。

でもそれは、通奏低音として流れる教養、つまり社会の中で物事を考えるための大きな枠組みとしての知識なのだと思います。これらの知識が直接何かの役に立たなくても、目の前の事象を理解し、選び、楽しむための基盤にはなっているのです。

鍼灸学校での知識も同じなのかもしれません。最近、30年前の教科書を見直して、ああそうだった、うんうんと思うことがたくさんあります。当時は暗記するだけの知識だったものが、臨床経験と様々な学びを経て、標準的な知識が基礎土台として生きてくるのだと感じるのです。その土台があってこそ様々な理論が乗り、臨床の具体の場が、属人性を持ちながら作り上げられていくのかなあと。

私は名人の先生ではないかもしれません。でも結局、患者さんの前に立てば他に誰がいるわけでもなく、ひとりの臨床家として様々な理論、知識、経験をもって、私という臨床家の属人性を持った選穴をしていくのです。

自分の臨床は、こうやって作り上げ、表現(選穴)していくものなのだなあと、そんなことを思ったのでした。

選穴の属人性は、未熟さではなく、臨床の本質なのかもしれません。

身体は何に影響されているのか ― 三因学説という見方

身体は何に影響されているのか ― 三因学説という見方

最近、「暝想(めいそう)」という言葉を耳にする機会が増えました。

暝想というと、どこか宗教的な印象を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。
私自身は、宗教的な要素をできるだけ排した、
気持ちや状態を整えるための方法として、
マインドフルネスという考え方からこの分野に入りました。

その中で身につけてきた呼吸や注意の向け方が、
結果的に、東洋医学で言う「暝想」とほぼ同じものだなあ、
という体験をしています。

やり方や効果について、いろいろな情報も出ていますね。

今日は、
「暝想(あるいはマインドフルネス)が、なぜ身体に影響を与えると考えられてきたのか」
それを東洋医学の視点から整理してみたいと思います。

三因学説という考え方

東洋医学には、病や不調の原因を考えるときに
三因学説(さんいんがくせつ)という枠組みがあります。

身体は、大きく分けて
次の三つの要因から影響を受ける、という考え方です。

外因

外界から受ける影響です。
暑さ寒さ、湿度、風など、いわゆる環境要因。

現代的に言えば、
騒音や人の視線、刺激の多さなども含めて考えると分かりやすいと思います。

内因

人の内側で起こる精神的な動き。
気持ち、感情、意思の働きです。

ここで大事なのは、
内因は必ずしも外因への反応として起こるわけではない、という点です。

人は、生きているだけで
理由がはっきりしなくても
不安になったり、考えが止まらなくなったり、
気持ちや意思が暴走することがあります。

東洋医学では、そうした精神の動きそのものが、
身体に影響を与える要因として最初から想定されています。

不内外因

外因でも内因でも割り切れない要素です。

食べ方、働き方、休み方、睡眠、身体の使い方。
つまり、日常生活のあり方です。

東洋医学では、飲食不節、労倦、房事過多などと表現されますが、
要は「どう生きているか」ということ。

ここが、とても面白いところだと感じています。

暝想はどこに位置づけられるのか

暝想は、
感情を消すための方法でも、
何も考えない状態を作るための技法でもない、
と私は考えています。

東洋医学的には、
暝想は内因(感情・意思の動き)で乱れがちな気の流れを整える方法
と捉えると分かりやすい。

生きていると、私たちの意識や気は
どうしても、
頭のほう、上のほう、外の世界へ向かいやすくなります。

暝想では、
呼吸や身体感覚、
臍下丹田(おへその下あたり)に意識を向けることで、
外に散りやすい注意をいったん内側に戻していきます。

そうすることで、
本来の身体のリズム、
気の昇降出入(上がり、下がり、出入り)が
整いやすくなる、という考え方です。

不内外因という「自分で扱える領域」

三因学説の中で、
私がとても面白いと感じているのが不内外因です。

環境(外因)は、完全にはコントロールできません。
感情や気持ち(内因)も、思い通りにならないことが多い。

でも、
どう休むか、
どう身体を使うか、
どう注意を向け直すか。

こうした不内外因の領域は、
少しずつ調整することができます

暝想も、
この不内外因に属する、
「生活上の選択」「身体の扱い方」の一つだと考えると、
とても現実的になります。

心と身体を分けないという発想

感情の動きと、臓腑のありようを
一つのものとして捉える。

心と身体を切り分けず、
どちらからでも全体に働きかけられる。

この発想そのものが、
東洋医学の面白さであり、
今の暮らしの中でも使える視点だなあと感じています。

人間って、
本当に面白い生き物ですよね。

具体と抽象でみる臨床の世界

具体と抽象でみる臨床の世界

もうすぐ、針のメーカーであるセイリンさん主催のセミナーでお話しさせていただきます(鍼灸師向けのセミナーです)。

パイオネックスという、貼るタイプの小さな針。
私はこの針が大好きでよく使っており、そのご縁からお話しの機会をいただきました。
妊活や女性疾患に関する講演はこれまでも多くさせていただいていますが、今回のようなテーマはあまり経験がなく、少しドキドキ(^^)
でも、とても楽しみにしています。

 

具体と抽象

セミナーのスライドを作っていて、「具体と抽象」というテーマを改めて考えました。

この「具体と抽象」という考え方は、慣れてくるとそんなに難しいものではなく、ちょっとした“思考の道具”のように使える感覚になります。

参考になる本もあります。
👉 『13歳から鍛える具体と抽象』

小児はりの世界と生命観

小児はりの先生が「マニュアルを作るのは難しい〜」とおっしゃっていました。

これは、小児はりをなさるベテランの先生方の多くに、「子ども全体を眺める生命観」が自然に根づいているからだと感じます。

その生命観の発露として“技術”がある。
この順番が大事なんだと私は思っています。

つまり、抽象のレベルに生命観や論理があり、具体のレベルにノウハウや技術がある。
この両者が響き合うことで、臨床は豊かに、自由に広がっていくのだと思います。

「どこに貼る?」の背後にあるもの

パイオネックスは置き鍼なので、技術的には貼れば効きます。
一番よく出てくる質問が「どこに貼るの?」というもの。

もちろん大切な問いですが、本当に面白いのは、その「どこに」を導き出す“背景の考え方”です。

臨床の上手い先生方は、当たり前のように自分の中にある生命観(抽象)をもとに、目の前の身体に技術(具体)を落とし込んでいきます。

初心者の臨床家は、この生命観がないまま具体の質問だけをしてしまうことが多い。
だから、なかなか広がりが掴みきれないのだと思います。

同じ「どこに貼る?」という質問でも、その答えの“深み”が、受け取る人によってまったく違ってくるのだと感じます。

抽象と具体の往復が生む広がり

臨床を日々実践していく中で、この「抽象と具体の往復」を意識してみると、見える世界がぐっと豊かになります。

論理で考え、感覚で表現する。
頭と手のあいだを自由に行き来できるようになると、施術の一つひとつが、まるで“生命観の翻訳”のように感じられます。

まとめ

論理がなければ、目の前の人間を理解できない。
でも、技術の表現力がなければ、いくら論理を振りかざしても臨床は成り立たない。

抽象と具体。
どちらも欠けてはいけない、鍼灸の面白さの原点かもしれません。

うふふ、やっぱり臨床って楽しいですね😊