東洋医学から見た人間観察」カテゴリーアーカイブ

どこのツボをつかうかー経穴の属人性

選穴の属人性

先日、アールデコ展という、100年前の1925年パリ博覧会をきっかけに広まったデザイン様式の展示を見ました。女性の身体解放と新しい時代の価値観を象徴する服飾の変化が紹介されていて、ぎゅっとウエストを締め付けるドレスから、ざくっと身体が解放されるデザインへと移り変わっていく様子に、へえ、服って時代の価値観を表すものなのねえと感心しました。

ふと、これは概念や価値観、理論があって、その先の具体的な表現として各々の「服」があるということなのかな、と非常にわかりやすくイメージできました。

■名人の技

患者さんから、昔通っていた鍼灸院の話を聞くことがあります。そうすると、名人の先生はやっぱり鍼が上手い、効かせるんですよね。すごく面白くて、つい聞き惚れてしまいます。

先般参加させていただいたセミナーでは、表裏の組み合わせ一覧表を示しながら具体的な選穴の説明がありました。例えば、肘の曲池付近に症状がある場合、手陽明(大腸)ー足陽明(胃)の表裏関係、さらに臓腑の表裏で胃→脾とつなげて、脾経の膝にある陰陵泉を取穴する、というような説明です。

なるほど、取穴とはこういうシステムを使うのだなと理解でき、選穴って洋服の組み合わせみたいで面白いなあと思いながら聞いていました。

そして実技。説明を踏まえた実技のあと、くるっと後ろを向いて振り返り、そのまま選穴。驚いていると「うん、どこでもいいんだよ!」と。

理論を踏まえた上で、理論を超越して「どこでもいい」。

ううううううううううう〜。

どこでもいい……。

後ろの方で誰かが、「それを言っちゃあおしまいでしょ・・・」と

呟きました。

みんなで苦笑

■理論と選穴の属人性

人間の身体は丸ごと一つの存在であり、様々なネットワークでつながり構成されているとも考えられます。東洋医学の理論は、そのネットワークをそれぞれの視点から説明しているものとも言えます。陽明の表裏や臓腑の表裏もその一つです。

ネットワークや構造を踏まえた選穴は、理論をそのまま具体化しており、標準化が高く、誰でも理解し選穴できるスタイルです。

しかし「どこでもいい」という言葉は、理論を踏まえたとしても、最終的には鍼を打つ人の望聞問切を含めた言語化されない技量に依存する部分がある、ということを示しているのかもしれません。名人先生の選穴は、一般の人から見れば理論を超越し、どこでも効かせられてしまう技に見えるでしょう。患者さんにとっては「効く」ことが重要ですが、学びたい人にとっては言語化されていない「名人の技」は、弟子入りでもしないと学び得ない領域なのかなとも思いました。

つまり、属人性の高い選穴が「名人の技」なのかもしれない、と感じたのです。

■学んでいくということ

学校で学んだことなんて役に立たない、というセリフをよく聞きます。数学や国語、理科や歴史なんて社会に出たら意味がないと。

でもそれは、通奏低音として流れる教養、つまり社会の中で物事を考えるための大きな枠組みとしての知識なのだと思います。これらの知識が直接何かの役に立たなくても、目の前の事象を理解し、選び、楽しむための基盤にはなっているのです。

鍼灸学校での知識も同じなのかもしれません。最近、30年前の教科書を見直して、ああそうだった、うんうんと思うことがたくさんあります。当時は暗記するだけの知識だったものが、臨床経験と様々な学びを経て、標準的な知識が基礎土台として生きてくるのだと感じるのです。その土台があってこそ様々な理論が乗り、臨床の具体の場が、属人性を持ちながら作り上げられていくのかなあと。

私は名人の先生ではないかもしれません。でも結局、患者さんの前に立てば他に誰がいるわけでもなく、ひとりの臨床家として様々な理論、知識、経験をもって、私という臨床家の属人性を持った選穴をしていくのです。

自分の臨床は、こうやって作り上げ、表現(選穴)していくものなのだなあと、そんなことを思ったのでした。

選穴の属人性は、未熟さではなく、臨床の本質なのかもしれません。

身体は何に影響されているのか ― 三因学説という見方

身体は何に影響されているのか ― 三因学説という見方

最近、「暝想(めいそう)」という言葉を耳にする機会が増えました。

暝想というと、どこか宗教的な印象を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。
私自身は、宗教的な要素をできるだけ排した、
気持ちや状態を整えるための方法として、
マインドフルネスという考え方からこの分野に入りました。

その中で身につけてきた呼吸や注意の向け方が、
結果的に、東洋医学で言う「暝想」とほぼ同じものだなあ、
という体験をしています。

やり方や効果について、いろいろな情報も出ていますね。

今日は、
「暝想(あるいはマインドフルネス)が、なぜ身体に影響を与えると考えられてきたのか」
それを東洋医学の視点から整理してみたいと思います。

三因学説という考え方

東洋医学には、病や不調の原因を考えるときに
三因学説(さんいんがくせつ)という枠組みがあります。

身体は、大きく分けて
次の三つの要因から影響を受ける、という考え方です。

外因

外界から受ける影響です。
暑さ寒さ、湿度、風など、いわゆる環境要因。

現代的に言えば、
騒音や人の視線、刺激の多さなども含めて考えると分かりやすいと思います。

内因

人の内側で起こる精神的な動き。
気持ち、感情、意思の働きです。

ここで大事なのは、
内因は必ずしも外因への反応として起こるわけではない、という点です。

人は、生きているだけで
理由がはっきりしなくても
不安になったり、考えが止まらなくなったり、
気持ちや意思が暴走することがあります。

東洋医学では、そうした精神の動きそのものが、
身体に影響を与える要因として最初から想定されています。

不内外因

外因でも内因でも割り切れない要素です。

食べ方、働き方、休み方、睡眠、身体の使い方。
つまり、日常生活のあり方です。

東洋医学では、飲食不節、労倦、房事過多などと表現されますが、
要は「どう生きているか」ということ。

ここが、とても面白いところだと感じています。

暝想はどこに位置づけられるのか

暝想は、
感情を消すための方法でも、
何も考えない状態を作るための技法でもない、
と私は考えています。

東洋医学的には、
暝想は内因(感情・意思の動き)で乱れがちな気の流れを整える方法
と捉えると分かりやすい。

生きていると、私たちの意識や気は
どうしても、
頭のほう、上のほう、外の世界へ向かいやすくなります。

暝想では、
呼吸や身体感覚、
臍下丹田(おへその下あたり)に意識を向けることで、
外に散りやすい注意をいったん内側に戻していきます。

そうすることで、
本来の身体のリズム、
気の昇降出入(上がり、下がり、出入り)が
整いやすくなる、という考え方です。

不内外因という「自分で扱える領域」

三因学説の中で、
私がとても面白いと感じているのが不内外因です。

環境(外因)は、完全にはコントロールできません。
感情や気持ち(内因)も、思い通りにならないことが多い。

でも、
どう休むか、
どう身体を使うか、
どう注意を向け直すか。

こうした不内外因の領域は、
少しずつ調整することができます

暝想も、
この不内外因に属する、
「生活上の選択」「身体の扱い方」の一つだと考えると、
とても現実的になります。

心と身体を分けないという発想

感情の動きと、臓腑のありようを
一つのものとして捉える。

心と身体を切り分けず、
どちらからでも全体に働きかけられる。

この発想そのものが、
東洋医学の面白さであり、
今の暮らしの中でも使える視点だなあと感じています。

人間って、
本当に面白い生き物ですよね。

具体と抽象でみる臨床の世界

具体と抽象でみる臨床の世界

もうすぐ、針のメーカーであるセイリンさん主催のセミナーでお話しさせていただきます(鍼灸師向けのセミナーです)。

パイオネックスという、貼るタイプの小さな針。
私はこの針が大好きでよく使っており、そのご縁からお話しの機会をいただきました。
妊活や女性疾患に関する講演はこれまでも多くさせていただいていますが、今回のようなテーマはあまり経験がなく、少しドキドキ(^^)
でも、とても楽しみにしています。

 

具体と抽象

セミナーのスライドを作っていて、「具体と抽象」というテーマを改めて考えました。

この「具体と抽象」という考え方は、慣れてくるとそんなに難しいものではなく、ちょっとした“思考の道具”のように使える感覚になります。

参考になる本もあります。
👉 『13歳から鍛える具体と抽象』

小児はりの世界と生命観

小児はりの先生が「マニュアルを作るのは難しい〜」とおっしゃっていました。

これは、小児はりをなさるベテランの先生方の多くに、「子ども全体を眺める生命観」が自然に根づいているからだと感じます。

その生命観の発露として“技術”がある。
この順番が大事なんだと私は思っています。

つまり、抽象のレベルに生命観や論理があり、具体のレベルにノウハウや技術がある。
この両者が響き合うことで、臨床は豊かに、自由に広がっていくのだと思います。

「どこに貼る?」の背後にあるもの

パイオネックスは置き鍼なので、技術的には貼れば効きます。
一番よく出てくる質問が「どこに貼るの?」というもの。

もちろん大切な問いですが、本当に面白いのは、その「どこに」を導き出す“背景の考え方”です。

臨床の上手い先生方は、当たり前のように自分の中にある生命観(抽象)をもとに、目の前の身体に技術(具体)を落とし込んでいきます。

初心者の臨床家は、この生命観がないまま具体の質問だけをしてしまうことが多い。
だから、なかなか広がりが掴みきれないのだと思います。

同じ「どこに貼る?」という質問でも、その答えの“深み”が、受け取る人によってまったく違ってくるのだと感じます。

抽象と具体の往復が生む広がり

臨床を日々実践していく中で、この「抽象と具体の往復」を意識してみると、見える世界がぐっと豊かになります。

論理で考え、感覚で表現する。
頭と手のあいだを自由に行き来できるようになると、施術の一つひとつが、まるで“生命観の翻訳”のように感じられます。

まとめ

論理がなければ、目の前の人間を理解できない。
でも、技術の表現力がなければ、いくら論理を振りかざしても臨床は成り立たない。

抽象と具体。
どちらも欠けてはいけない、鍼灸の面白さの原点かもしれません。

うふふ、やっぱり臨床って楽しいですね😊

CBT:自動思考の選び方

CBTをしていると、自動思考の選定が一番の山かなと感じます。

たとえば、本を買っても読んでないという事実に心がざわついてワークします。

自動思考:本を買ったら読むべきだ

リライト:現実的には読むべきとはいえない

反証:なぜならば、時間がないこともあるから。いそがしいから

逆転行動:本を買わない

これだと、いわゆる腑抜けワーク

出来ないことの言い訳で、こうすることで、もし自分自身の長中期的な視点には、本を読んで知識を積み重ねたいということがあれば、挫折になっちゃいます。

では、もうちょっと視点を変えます・

自動思考:本を買ったらすぐに読むべきだ

リライト:現実的には、すぐに読むべきだとは限らない

反証:なぜならば、いまは時間がないから

逆転行動:本を読めるスキマ時間をつくっていく。読める工夫をする

少しだけ視点を変えると、面白い変化になります。

自動思考はもっともっと視点を変えるのも可能かと思います。

自動思考と、自分の価値観にもとづいた方向性への気づきはとても大きな視点で、人生のパイロットとなり、コントロール感を持つためには必須です。

CBTは、人生のコントロール感をもつためにとても大事だと思います。

腑抜けワークをして、いまをやりすごすだけにしてしまっていいのか?という視点をもつのもよいかなと感じます。

長中期的な視点に立った位置で、自動思考を少し考え、抽象度の上げ下げなどをして、どこに焦点をあてるかで、流れを変えることもできます。

CBTどうつかうか?でですね。

なかなか面白い試み、あれこれと試行錯誤しながらやっていきたいと思います。

CBTを学んで見えた「私の中のアドラー」—東洋医学×心理学の橋渡し

CBTを学んで見えた「私の中のアドラー」—東洋医学×心理学の橋渡し

先日、zoomにて、アドラーをテーマに雑談会をさせていただきました。
私は、あらためて「自分の思考の土台にアドラー心理学がいる」と気づいた振り返りの時間でした。鍼灸の臨床で身体をみる視点と、CBT(認知行動療法)の技法、そしてアドラーの価値軸。その三者を“現場で使える関係”に並べ直す試みです。

この記事のポイント

  • アドラーの二層の目標:行動(自立/社会と調和)を支える心理(自己受容/他者信頼・貢献)。
  • 感情の扱い:アドラーは「感情=道具」。CBTは「出来事・認知・感情・行動を分けて、選択の“隙間”を作る」。
  • 東洋医学の身体観:言葉より体が真実を語る。緊張=“気を張る”は、胃の上向きベクトルなど身体所見にも現れる。

1. 原点の体験:「態度としての共感」を教わった日

最初にアドラーへ扉を開いてくれたのは、岸見一郎さんの講座でした。内容よりも記憶に残ったのは“待つ姿勢”。「あなたの質問に関心があります」という、言葉以前の在り方。ここで私は、自分に相手へ向かう共感の筋力が足りないことを自覚しました。続けて、野田俊作さんの「SMILE/PASSAGE」で実践を重ね、子育て・教育文脈のアドラーを肌で学ぶことに。

2. 『嫌われる勇気』の立ち位置:実践編を“社会”へ広げた本

子育て中心の実践アドラー(縦の賞罰より横の関係)に対し、『嫌われる勇気』は対象を「仕事・交友」へと拡張。土台は同じでも、届く読者と場面が広がりました。核にあるのは次の二層です。

行動面の目標

  • 自立する
  • 社会と調和して生きる

心理面の目標(行動を支える信念)

  • 私は能力がある(自己受容)
  • 人々は私の仲間だ(他者信頼→他者貢献)

この循環が成熟すると、アドラーの核心である共同体感覚に近づいていきます。

3. 感情は“主人公”か“道具”か:アドラーとCBTの交差点

アドラーの見方:感情=目的に資する道具

例:
「イライラ(感情)→コーヒーを飲み過ぎる(手段)→不眠(結果)」
このとき主人公はであり、感情は“使うもの”。「感情の奴隷」にならない=責任と選択を自分に戻す、が基本姿勢。変化への一歩を支える援助が勇気づけ(Encouragement)です。

CBTの見方:出来事・認知・感情・行動を分ける

同じ例でも、CBTは「イライラ(感情)とコーヒー(行動)を分離」して、その間に“選択の隙間”を作ります。自動思考と推論の誤りを点検し、代替思考→代替行動へ。依存的に“感情=行動のワンセット”になっているケースを剥がすのに有効です。

実務的には「両輪」

  • 短期の行動変容:CBTで分けて、隙間を広げる。
  • 長期の価値軸:アドラーで「自己受容/他者信頼・貢献」を育て、選択を支える土台にする。

4. 東洋医学の身体観:言葉より先に、体が語る

臨床では、問診と言葉だけでは届かないことが多々あります。
舌・皮膚・結節・脈・冷え/火照り…身体所見は“いまこの人に起きていること”の一次情報

たとえば緊張が強いと、胃のベクトルは“上突き上げ”に偏り、心窩部(みぞおち)不快として現れる。東洋医学の比喩でいえば、幹(気を張る)ばかりで根(腎)を養えないと、いつかボキっと折れる。だから「鎧を少し下ろす」介入(マインドフルネス、養生、鍼灸)が活きてきます。

5. ケース小話:「イライラ→コーヒー→不眠」をどう変える?

  • 出来事:仕事後にイライラを感じた。
  • 自動思考:「このモヤモヤはコーヒーで流すしかない」
  • 感情・身体:ソワソワ、心窩部の突き上げ、肩のこわばり。

CBTの技法:感情と行動を切り離し、代替を用意(白湯・ストレッチ・5分外気浴・呼吸)。
アドラーの援助:自分が主人公である前提に立ち直り、「今日は“眠れる明日”を選ぶ私」を勇気づける。
東洋医学の養生:夕の冷やしすぎを避け、温養のスープ、足湯、腹部を冷やさない等で“根”に栄養。

6. 親子・教育への応用:縦より横、賞罰より勇気づけ

アドラーは「課題の分離」で境界線を明確にし、支配から援助へ。褒めて従わせるより、自己受容と共同体感覚を育てるほうが長期の自立につながる――これは臨床の患者教育(セルフケア/再発予防)とも相性が良いと感じています。

7. まとめ:鎧を少し下ろして、根を育てる

  • 短期:CBTで「感情と行動の隙間」をつくる。
  • 中長期:アドラーの価値軸(自己受容→他者信頼→他者貢献)で選択を支える。
  • 常に:身体所見を手がかりに、養生と鍼灸で“根”を養う。

人生の運転手は私。道路状況(出来事)に左右されても、ハンドル(選択)を手放さない。そのための道具が、CBT・アドラー・東洋医学の三点セットだと、いまは考えています。

 


編集後記

「感情は道具。でも体は嘘をつかない。」この一句が、当面の私の合言葉。鎧を少しだけ緩めて、根っこを育てるを軸にしていきます。
ではまた〜。