言葉はどこからくるんだろう?

言葉はどこから来るんだろう?

私達はあたりまえに、日本語を使い、言葉を使い人とコミュニケーションしています。

☆東洋世界の言葉

東洋医学の世界にいると、言葉を使うときには用心深くなりますねえ。

たとえば、気という言葉。これ普通に使っちゃうんですが、どういう意味で使っているのかが結構大きな問題。

でもって、この世界にいる人同士でも、使っている前提が違うと全く違う意味合いで使っているのに、同じ言葉だったりするので不毛な(^_^;)論争が。

私がこう言った言葉を使うときに一番心がけるのは、場の設定。どんな場を設定して気という言葉をつかっているのかによって、

意味がちがってくるかなと思います。

気という言葉も、まるごとひとつの身体そのものをあらわし、気としているのか、そのまるごとひとつの身体を気血という動きとモノという観点から分けたときに見ている言葉としての気か、胃腸の力という側面で、胃を一つの存在(場の設定)でみたときの、胃気ということば。

ただし、この胃の気というのは、場の設定によって、胃の気という人間の生命力を感じてみるときの尺度にしてある場合もありますので、要注意です。

☆小さい子供が言葉を獲得するということ

さて、そんな言葉って難しいなあの世界に私はいるのですが、

目の前にいる、今度の7月で2才になる孫がまだ意味ある言葉を話さなくって

改めて『言葉』ってなんだろうと深く考えます。

子供の成長的には、一才半検診で意味ある言葉を2つ3ついうか?と言う項目が

クリアできてない(^_^;)ということで、娘は非常にあせっていますが、

私が観察するに、なんらかの問題があって言葉を話さないっていうよりは、彼にとってはまだ発語の必要性がないんじゃないかなという感じで眺めています。

孫ちゃんは、キュイキュイ語をあやつります。

夕飯を食べて椅子に座っているときに、あれこれとテーブルの大人用に盛り付けられた

皿を指差し、孫ちゃん『キュイキュイ〜』(そっちがほしい)。

大人『これなの?』

孫ちゃん『きゅいーん』(違う、それじゃない。)

大人『じゃあこっちのにんじん?』

孫ちゃん『きゅいきゅい』(そうそう)

大人『さっきから人参ばっかりじゃない、お肉も食べなさい』

孫ちゃん『きゅい〜〜ん』(やだやだ、人参がもっと食べたい)

ってな感じです。

早く、人間語を話せよおいってな感じですが、

孫ちゃんの師匠はうちの猫集団。

猫先生も私をじーっとみて

猫先生『にゃー』(おい、メシくれ!)となき。

私『はいはい、ご飯ね、まっててね』

猫先生ジー—と視線

私『ごめんごめん、すぐするから』

猫先生も、孫ちゃんも、彼らにとって、人間語はなくても、日々は過ごせます。

言葉が話せたら、本当に楽だし、世界が広がる。

言葉ってのは、いったいどこから降ってわいてくるのか。

☆言葉がわかっているのか、いないのか

言葉がわかっているか、わかっていないのかという判定に、

ジェスチャーを用いずに言葉だけを使ってみて様子をみてみるということを知りました。

そういえば、私達は小さい子に話しかけるとき、いつもジェスチャーをいれて

話していました。

『あっちにいこう』と、あっちを指差しながら語りかけたり、

『これどうぞ』といいながら、コレを手のひらにのせ、目の前に提示したり。

この使い方だと、言葉そのものが子供にはいらなくなり、言葉で理解しているのか

ジェスチャーで理解しているのかわかりません。

そこで、

『これをゴミ箱にいれて』とジェスチャー無しで言うと、

ちゃんとゴミ箱に捨ててくれました。

『これを洗濯機の前に置いてきて』もできたので、

どうも言葉も分かっていて、彼にとってはまだ『人の言葉』を自分で使うことが

必要の内談会なんだなと思いました。

☆環境と言語 沢山の言語に囲まれたフィリピンの人

私はフィリピンの人とのオンライン英会話をながらく続けています。

フィリピンには、国語としてのナショナルラングイッチ(タガログ)がありますが、

言語という意味合いを持つほどの違いがある地方語(ダイアレクト)があります。

そして教育を受けるには英語が必要です。

そんな環境にある彼ら。ときに、言語の専門家である人が先生だったりするので、

『もしあなたがご自身の子供に言葉を教えるときに、何を一番最初に教えますか?』

と聞くと、90%の人が、ダイアレクトを一番最初に教えるといいます、

10%いやもうちょっと低いかなが英語。

ナショナルラングイッチを最初に教えるというお返事は今までもらったことがありません(^_^;)。

このイメージ日本ではちょっとつかないですねえ。

で、これはなぜ?という先生との討論の中で、『言語は文化を表している』と言うことに

気がつきました。つまり、言葉は意味が通じる道具であり、文化も共有するという前提の道具なのだということです。

気という言葉が、なかなか曖昧なのは、この『文化的意味合い』が強いがために

共有することが難しいのかしらんなどとおもったりして。

孫ちゃんのキュイキュイ語は非常に面白いです。

いったい彼の頭の中で、どんな感じで、日本語とつながっていくのかは興味深いです。

桜の花びらがまっています。

世の中にたえて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし。

いにしえの方々と言葉を共有し、桜を愛でることができる。

日本語の美しさと同じ言葉が長年使うことが許されている国にいることに感謝です。