アドラー心理学」カテゴリーアーカイブ

久しぶりのアドラー

久しぶりのアドラー

ちょっとした集まりで、アドラーの話題が出ました。

私にとって「アドラー」というキーワードとともに思い出すのは、
アドラー心理学基礎講座で初めてお会いした、岸見一郎先生のお姿です。

会場を見渡しながら、見守るような視線で、
「あなたの疑問に興味があります」
と仰っていました。

これが、私の原点なんですよね。

……ただ今回、この一文を、
「あなたの興味に関心があります」
と言ってしまったような気がして。

たぶん、もともとは
「あなたの疑問に興味があります」
だったはず。
うーん、原点と言っている一文を忘れるか❗>自分。

この原点は、私にとって映像記憶なんですよね。
あのときの岸見先生が、会場をゆっくり眺めている姿。
それを言語化した一文が
「あなたの疑問に興味があります」なんです。

だから場面によっては、
「あなたの興味に関心があります」
でも、きっと本質は同じなのかなあと(言い訳(^^ゞ)

アドラーとは長い付き合いで、
私の中に重奏低音として流れている価値観に近い存在です。

「課題の分離」や「子育ての目標」など、
岸見一郎先生が『嫌われる勇気』でブレイクする前、
どちらかというと「子育て世代」向けだった頃のアドラー。

その頃に講習会に通い、
ワークシートをせっせと書いていました。

アドラー心理学1,2


久しぶりに検索してみたら、
岸見さんが『老いる勇気』という本を書いていて、
世代的にピッタリで、思わずポチりました。

>「今、ここ」を精一杯生き、老いを愉しむための最上の幸福論
>「生産性で人の価値は決まらない」

うーん。
私が「今っぽい本」に今ひとつ刺さらないのは、
もう岸見先生に、すでに洗脳されているのだな(^^ゞ
と理解しました。

それだけ、私の中の「価値」に
深く触れているということなのかもしれません。


老いる勇気

CBTを学んで見えた「私の中のアドラー」—東洋医学×心理学の橋渡し

CBTを学んで見えた「私の中のアドラー」—東洋医学×心理学の橋渡し

先日、zoomにて、アドラーをテーマに雑談会をさせていただきました。
私は、あらためて「自分の思考の土台にアドラー心理学がいる」と気づいた振り返りの時間でした。鍼灸の臨床で身体をみる視点と、CBT(認知行動療法)の技法、そしてアドラーの価値軸。その三者を“現場で使える関係”に並べ直す試みです。

この記事のポイント

  • アドラーの二層の目標:行動(自立/社会と調和)を支える心理(自己受容/他者信頼・貢献)。
  • 感情の扱い:アドラーは「感情=道具」。CBTは「出来事・認知・感情・行動を分けて、選択の“隙間”を作る」。
  • 東洋医学の身体観:言葉より体が真実を語る。緊張=“気を張る”は、胃の上向きベクトルなど身体所見にも現れる。

1. 原点の体験:「態度としての共感」を教わった日

最初にアドラーへ扉を開いてくれたのは、岸見一郎さんの講座でした。内容よりも記憶に残ったのは“待つ姿勢”。「あなたの質問に関心があります」という、言葉以前の在り方。ここで私は、自分に相手へ向かう共感の筋力が足りないことを自覚しました。続けて、野田俊作さんの「SMILE/PASSAGE」で実践を重ね、子育て・教育文脈のアドラーを肌で学ぶことに。

2. 『嫌われる勇気』の立ち位置:実践編を“社会”へ広げた本

子育て中心の実践アドラー(縦の賞罰より横の関係)に対し、『嫌われる勇気』は対象を「仕事・交友」へと拡張。土台は同じでも、届く読者と場面が広がりました。核にあるのは次の二層です。

行動面の目標

  • 自立する
  • 社会と調和して生きる

心理面の目標(行動を支える信念)

  • 私は能力がある(自己受容)
  • 人々は私の仲間だ(他者信頼→他者貢献)

この循環が成熟すると、アドラーの核心である共同体感覚に近づいていきます。

3. 感情は“主人公”か“道具”か:アドラーとCBTの交差点

アドラーの見方:感情=目的に資する道具

例:
「イライラ(感情)→コーヒーを飲み過ぎる(手段)→不眠(結果)」
このとき主人公はであり、感情は“使うもの”。「感情の奴隷」にならない=責任と選択を自分に戻す、が基本姿勢。変化への一歩を支える援助が勇気づけ(Encouragement)です。

CBTの見方:出来事・認知・感情・行動を分ける

同じ例でも、CBTは「イライラ(感情)とコーヒー(行動)を分離」して、その間に“選択の隙間”を作ります。自動思考と推論の誤りを点検し、代替思考→代替行動へ。依存的に“感情=行動のワンセット”になっているケースを剥がすのに有効です。

実務的には「両輪」

  • 短期の行動変容:CBTで分けて、隙間を広げる。
  • 長期の価値軸:アドラーで「自己受容/他者信頼・貢献」を育て、選択を支える土台にする。

4. 東洋医学の身体観:言葉より先に、体が語る

臨床では、問診と言葉だけでは届かないことが多々あります。
舌・皮膚・結節・脈・冷え/火照り…身体所見は“いまこの人に起きていること”の一次情報

たとえば緊張が強いと、胃のベクトルは“上突き上げ”に偏り、心窩部(みぞおち)不快として現れる。東洋医学の比喩でいえば、幹(気を張る)ばかりで根(腎)を養えないと、いつかボキっと折れる。だから「鎧を少し下ろす」介入(マインドフルネス、養生、鍼灸)が活きてきます。

5. ケース小話:「イライラ→コーヒー→不眠」をどう変える?

  • 出来事:仕事後にイライラを感じた。
  • 自動思考:「このモヤモヤはコーヒーで流すしかない」
  • 感情・身体:ソワソワ、心窩部の突き上げ、肩のこわばり。

CBTの技法:感情と行動を切り離し、代替を用意(白湯・ストレッチ・5分外気浴・呼吸)。
アドラーの援助:自分が主人公である前提に立ち直り、「今日は“眠れる明日”を選ぶ私」を勇気づける。
東洋医学の養生:夕の冷やしすぎを避け、温養のスープ、足湯、腹部を冷やさない等で“根”に栄養。

6. 親子・教育への応用:縦より横、賞罰より勇気づけ

アドラーは「課題の分離」で境界線を明確にし、支配から援助へ。褒めて従わせるより、自己受容と共同体感覚を育てるほうが長期の自立につながる――これは臨床の患者教育(セルフケア/再発予防)とも相性が良いと感じています。

7. まとめ:鎧を少し下ろして、根を育てる

  • 短期:CBTで「感情と行動の隙間」をつくる。
  • 中長期:アドラーの価値軸(自己受容→他者信頼→他者貢献)で選択を支える。
  • 常に:身体所見を手がかりに、養生と鍼灸で“根”を養う。

人生の運転手は私。道路状況(出来事)に左右されても、ハンドル(選択)を手放さない。そのための道具が、CBT・アドラー・東洋医学の三点セットだと、いまは考えています。

 


編集後記

「感情は道具。でも体は嘘をつかない。」この一句が、当面の私の合言葉。鎧を少しだけ緩めて、根っこを育てるを軸にしていきます。
ではまた〜。

自責と他責と時間ぐすりと:アドラー。 

「なぜ学校に行くのか」目的と原因、自責と他責

ある方との討論で、この「なぜ学校に行くのか」というテーマで考えてみる機会があったので、少し整理してみたいと思います。

問い:なぜ学校に行くのか自責と他責

>「なぜ学校に行くのか?」ということに
>「学ぶため、友達と遊ぶため」と答える場合、これは目的で、
>「親に言われたから」だと、これは原因ということですかね。
>どちらも「理由」として認識されるって感じですか?

誰の責任になる行動なのか、つまり誰の課題かを考えると、学校に行くのは「学校にいく本人」つまり子どもの課題です。
ですので、子どもが自分の課題を引き受けるという決心の上、学ぶため、友達と遊ぶためという目的をもって選んでいるということですね。

そして、親に言われたからっていうのは親に指示されていく私ってことで責任を引き受けていません、つまり他責。

>「なぜ学校に行かないのか?」ということに
「周りの人が怖いから」と答える場合、これは原因を指しているのに対し、

周りの人が怖いから学校にいけないかわいそうな私。
と、すれば他責。

でも、周りの人が怖いから、自分で行かないことを選択したというならば自責でOKですね。

自分での選択から始まる、親子の関係

自分で行かないことを選択ということがポイント。

そうすると、学校に行くという本人が課題を引き受けた上で、親と子が共通の課題にすればOKという文脈です。

ただし、課題の分離が最終ゴールではなく、出発点です。
まず課題の分離をした上で、親は子どもが子育ての目標である
1・私には能力がある、2・人々は私の仲間だと感じているのかなということを考えていきたいですね。

実際に、「子どもが学校に行かない」という状態で、日々を暮らすことは、親にとって本当にストレスフルだと思います。この状態で「学校に行く」のは子どもの課題、「子どもの生活への葛藤する気持ち」が親自身の課題ですね。

自分の課題への向き合い方、共通の課題にするプロセス。
親子関係を考えさせる局面だと思います。

イライラして眠れないかわいそうな私:自責と他責

>・「イライラして眠れないかわいそうな私を維持するためにコーヒーを飲む…」

>>「維持する」が手段で、目的は「かわいそうな私のままでいたい」その方>が自分に利益があると思い込んでいるから

自責と他責を考えるときには、文脈を読む必要があります。

他責で読めば、イライラして眠れない、つまりイライラが私を眠らせてくれないというイライラに責任がある。

コーヒーを飲んだから眠れない。つまりコーヒーのせいで眠れないという他責。

ここを自責で読めば、コーヒーを飲んで眠れないのは、イライラという感情のせいではなく、自分が選んだという自責。だから、解決する方法にコーヒーを飲むのを選ぶのも自分、他の方法を選ぶこともできるよと。

自責は厳しい

自責というのは、とても厳しいですね。
それでも、自分で責任をもつということは、どんな選び方も出来る可能性を語っています。

ある方から、

>短期的利益で条件づけられた習慣は、長期的には不利益をもたらし、本人を苦しめる結果となる

>というイメージを持っていますが、
>アドラーの「勇気づけ」というカウンセリングの場合、このようなケースではど
>のように行うのか・・・を知りたかったのです

この行動を選んでいるのは、自分であり、その選択が自分にとってこまっているのならば、『変えられる』ということだわね。

いつもの決まったパターンで、
仕事がトラブル→イライラ→コーヒーがぶ飲みが、自分にとって便利な方法であると判明すれば、

仕事がトラブル→イライラ→散歩をしてみる

と、行動をかえてみることもあなたは選択で来ますよと。
また、イライラという感情を選択しないこともできますよ。と。

>アドラー流は、具体的な代替行動までコミットするのでしょうか…?

私はコミットしますね。
選んでいるのは自分なんだから、他の方法を選ぼうよって他の方法を一緒に考えます。そう、一緒に考える。相談されたら共通の課題であるのですから、一緒に考えることはできますね。

アドラーが、仲間による助言を是とするのは、認知行動療法で求める新しい認知を見つけるためなのではないかとおもっています。

課題の分離をし、
状況を整理し、

その上で、今までの自分の視点だけでは見つけられなかった
新しい視点での行動を一緒に考える。
認知行動療法の視点と同じであると思いますし、
認知行動療法ではわかりにくい、価値の軸(私には能力がある、人々は私の仲間だ:共同体感覚)をもった生き方になるのかなと考えます。

苦しいときには他責にしたっていいんだよ

アドラーは自責です、選んでいるのは自分。
だから変えられると。

でもね、でもね。
どうしても、いま、この時の苦しさが乗り越えられないとき。
また自分自身にもともと非常に厳しい人にとって、
自分を責めて、何も変えられず、かえって行き詰まってしまうときには、
ときに、他責にして心を日だまりにおいて時間をもらいましょう。

時間薬という言葉があります。

アドラー流派厳しい、どうしても飲み込めないときがありますね。
困窮してしまうときには、
ちょっと時間を貰いましょう。
ちょっとちょっとだけ時間を貰って、ほっとして、頭の大混乱をやすめてみましょう。

第二章 賞罰のない育児

第2章  賞罰のない育児(聴き上手になろう)

 

うーん、どうも今ひとつワードプレスのブロックエディタになれないっすねえ。
表示はnoteの方が良いので、このシリーズを読みたい方は、よかったらそちらでどうぞ。
note版 第二章

スマイル:聞き上手になろう

1)子どもが負の注目を得ようとする2つの場合

 ・親が適切な行動に無関心で正の注目を与えていない

 ・親が与えた課題が難しすぎる場合

2)批判は子どもの勇気をくじく

 ・親は子どもを批判することが、子どもの勇気をくじいていることにきがついていない

 ・批判された子どもは臆病になる

3)罰の望ましくない5つの効果

・罰する人がいなければ不適切な行動をする

・罰は負の注目をあたえたことになり、不適切な行動が続く

 (無関心よりはよい、親の関心を引ける)

・罰では適切な行動を学習できない

・罰は勇気をくじき、消極的、依存的な子どもにする

・罰を与えると親を憎み、親子関係が悪くなる

4)罰する代わりにできること

・不適切な行動に注目を与えない

・適切な行動を見つけて認める

・適切な行動をしている他の子どもに感心をむけりう

5)聞き上手の

初級編

・相づちを打つ

・相手の言葉をくりかえそう

・黙ってしまったら、それで?などと水を向ける

・相手の話は最後まで聴く

上級編

子どもの気持ちを言葉に出してみる
あなたの気持ちを言ってみる

子どもとの視線や距離について工夫してみる

声の調子や顔の表情に気をつけよう

パセージ:賞罰のない育児


1)どんな場合に子どもは適切な行動をするか

1:罰を恐れて適切な行動をする

 →伝統的な育児や教育はこの方法。短期的には即効性があるかもしれないが、長期的によくない

2:賞を求めて適切な行動をする

→子育ての目標から考えると適切ではない

3:適切な信念に基づいて適切な行動をする。

→適切な信念、1・私には能力がある、2・人々は私の仲間だという信念に基づいての行動は子どもが自立している

☆厳しく躾けると(エッセイ風)

 甘やかされて育ったのが非行少年?→違うねえ。厳しく育てられた結果、親や社会に復讐しようとしている。人々のことも嫌い、自分のことも嫌い。自分を大切にしていない。1・私には能力がある、2・人々は私の仲間だ とという信念をもっていないとこうなっちゃうね。

 罰での子育ては、「自分のことは無能力で役立たずでイヤなやつだと思っちゃうし、人々はウソつきで裏切り者で信用できなくて敵だって思っちゃう」

 暴力的な子どもは、体罰で躾けられた子どもが多い。暴力が人に言うことを聞かせられるんだなと学んでしまう。→親が教えたかったことを学ぶのではなく、親がしてしまったことから学んでしまう

2)罰の好ましくない副作用

1:罰は負の注目になる

 罰の唯一の利点は即効性がある。「無関心でいられるよりは、罰せられてでも親の注目を引いている方がいい」

2:罰する人がいなければ不適切な行動をする

 善悪の判断が、叱られるか、叱られないかとなり、自分の内側に善悪の基準をもたない

3:親子関係が悪くなる

 罰せられると、親は自分のことを嫌いだ、私を支配しようとしてしまうと感じる

4:罰は子どもを消極的にする

 罰では適切な行動を学べない

5:適切な信念が育たない

 罰せられた子どもは、「私には能力がない」「親は私の中まではない」と感じる事が多い。子育ての目標を達成できず、自立せず、社会と調和できない

アドラー心理学ってなに

 アドラーは明治3年生まれで昭和12年になくなった。

アドラーは戦争をやめさせたかった。戦争は国際間の問題を解決するのに、暴力という方法を使う。これは子どものころから暴力で解決する習慣がついているからだと考えた。

 その上で賞を使う育児もアドラーは反対した。過保護も、過干渉も、放任も反対。そして勇気づけという新しい方法を打ち出した結果、旧来とは全く違う育児法が出来上がった。

アドラーは積極的に新しい方法を提案しているのであって、アレもダメ、コレもダメとただ反対しているのではない。

3)賞の望ましくない効果

1:賞を目的に行動するようになる

賞をもらえることが目的になり、勉強することの必要性を学べない、楽しさに目覚めることができない。

2:賞をもらえないとわかると、適切な行動をしない

賞を駆け引きの材料に使ってしまうかも

3:賞が次第にエスカレートする

4:結果ばかりを重視する

ご褒美を貰うために手段を選ばない

5:初めからあきらめてしまうかもしれない

☆賞と勇気づけはどこが違うのエッセイ

賞と勇気づけの違いは目的。勇気づけは子どもが適切な信念を持つように援助すること。賞は行動のことは考えているけど、信念ことは考えていない。

 褒めるっていうのは、一歩間違えると、上から目線で勇気づけにならず、相手の勇気をくじいちゃうのだ。1・私には能力がある、2・人々は私の仲間だという1・私には能力がある、2・人々は私の仲間だとを育てることがとっても大切で、勇気づけはそのためにあるのかもしれないねえ。と。

4)子どもの話を聴く

1:話しを最後まで聴く

 途中で口を挟まず、子どもが話し終わるまで黙って聞こう

2:子どもの方を向いて聞く

 子どもの方をむいて、子どもの話に関心を持っていることが伝わるように聞こう

3:相づちをうつ

 うんうん、なるほど、 それで? などや、感想などの相づちを挟むと、子どもは聞いてもらえていると感じてもっと話すようになります。

4:子どもが黙っていてもせかさない

 話の途中で黙ってしまったときは、考えをまとめているかもしれないので、目安として20秒ぐらいはまってあげるとよいでしょう。それでも続かないときは「それで?」などと水をむけるか、最後に話したことを繰り返す

☆相手の言うことを繰り返すのは エッセイ

 心理学でよく、「相手の言うことを繰り返して聞きなさい」とならいますね。実際にやるとこれはうまくいかないです。

 これは日本語と英語の違いかなと(by野田さん)

英語:意見→事実 感情→事実

   私はこう思う、どうしてかというと

   私はこう感じる、どうしてかというと。

日本語:事実→意見、事実→感情

こうこうなので、こう考えた

こうこうなのでこう感じた

日本語と、英語では文章の順番が違います。繰り返しでは最後の言葉を繰り返すので、日本語だと、意見や感情を繰り返すことになり、話しが主観的で感情的な方向にながれてしまう。

アドラーでは感情に焦点はあてず、事実や、それに対する態度決定とかのほうが、問題解決につながる。

つまり、ものごとがおこっている「事実や事態」の解決のために援助することが目的なので、感情に焦点を当てた繰り返しでは、出来事の正しい理解や対応が進まなくなってしまい、援助がしにくいと思われます。

5)再び勇気づけ

1:子どもの立場で勇気づけられるかどうか感じてみる

子どもの立場になって、感じてみよう。親の自己満足じゃダメ

2:罰は勇気づけにはなりません

罰しても1・私には能力がある、2・人々は私の仲間だ と感じられない。適切な行動をしていても、罰を恐れて臆病になっているだけかも。かえって目標から遠ざかります

3:賞は勇気づけにはなりません

賞は賞と紐付いた関係しか築けない。賞で育てると結果だけを重視して失敗を恐れる臆病な人になってしまう可能性があります。

4:勇気づけは激励ではない

激励で元気になってやる気をおこすこともある。しかし場合によっては、やる気を失い、絶望したり孤独感を持つ可能性もある。

☆勇気づけと勇気くじき 一覧表

勇気づけるメッセージ

勇気をくじくメッセージ

貢献や協力に注目する

賞杯や能力に注目する

課程を重視する

成果を重視する

すでに達成できている成果を指摘する

なお達成できていない部分を指摘する

失敗をも受け入れる

成功だけを評価する

個人の成長を重視する

他者との比較を重視する

相手に判断を委ねる

こちらが善悪良否を判断する

肯定的な表現を使う

否定的な表現を使う

私メッセージを使う

あなたメッセージを使う

意見言葉を使う

事実言葉を使う

感謝し共感する

賞賛し叱咤激励する

第一章 5)勇気づけ

5)勇気づけ

スマイルとパセージの大きな違いの一つに、勇気づけを出してくるタイミングもあります。スマイルは第三章で初めて出てきます。
第一章で子どもの行動を理解しようとし、正の注目負の注目、不適切な行動などを学び、第二章で聞き上手になろうとし、負の注目、罰、聴き上手ということを学び、その上で、第三章で初めて「子どもを勇気づけよう」という観点を学びます。

パセージでは最初から勇気づけがでてきます。
つまり、勇気づけはアドラー子育ての中心であること。そしてこの勇気づけはアドラーの価値である子育ての目標を踏まえれば、技術的な細々としたことより、ぐっと近い立ち位置なのかなと思います。つまり子育ての目標である1・私には能力がある、2・人々は私の仲間だを踏まえることをしっかりし、その表現をあれこれと学んで行くんだよというのがパセージのやり方なのかなと感じます。

勇気づけをはじめよう

1.適切な行動や適切な側面を探そう
2. 短所ではなく、長所に焦点を当てよう
3. 結果よりも、プロセスを重視しよう
4. 子どもの成長を認めよう
5. 他の子どもと比較しないでおこう
6.親子は仲間です。

なぜ勇気づけなのか、勇気づけって何?
勇気づけってなに?

アドラー心理学の子育て方は「勇気づけ」という言葉にあらわされるのではないかと思います。

さて、その前提として、アドラーを踏まえた、行動の目標、つまり子育ての目標をおさえておかなければなりませんね。

アドラーでは子育ての心理的な目標を2つあげています。

子育ての目標(行動面)
1)自立する、2)社会と調和して生きる
子育ての目標(心理面)
1)私は能力がある 2)人々は私の仲間だ

この2つの目標を達せられるように、子供に対して援助していくことが、勇気づけです。

行動面の自立するを達成する心理面のありようは「私には能力がある」という気持ちです。そして社会と調和して生きるためには、人のことを信じることが出来ることが必要で、「人々は私の仲間だ」と思えることが大事です。

人間関係、まず親子からですね。