6)課題の分離
嫌われる勇気というアドラー心理学を素材にしたドラマがありましたねえ。
そのドラマをみていて、一番違和感を感じるのが「課題の分離」ではなかったのかなと思います。
(もうひとつ、ナチュラルボーンアドラーっても不思議でしたが)
主人公の辣腕刑事のラン子さん。そして新人の青山くん。
青山君が、ラン子さんの元につくことになって、ラン子さんに質問します。
青山君 「なんて呼べばいいですか?」
ラン子さん「それは貴方の課題です、貴方が決めて下さい。」
課題の分離って、このように、「それは誰の課題か?」と明確にすることからスタートです。
私の課題、
貴方の課題、
そして共通の課題。
たとえば、お母さんが子供が勉強しなくて困っていますという問題で悩んでいるときに、誰の課題か?と考えます。
子供の課題は?
子供が勉強するのは子供の課題ですね。
お母さんの課題は?
お母さんの課題は「子供が勉強しないことの心配をどうするか」というのが課題です。
お母さんは自分の課題である「心配」を子供を使って解決することは出来ません。だって、自分の課題は自分で解決なのですよ。これが親の自立かな。この問題を子供に相談することで親子の共通の課題にすることは出来ます。)
さてさて、アドラードラマ、確かに課題の分離なんだけど、ラン子さんをなんて呼んだらいいですかという質問に対して、貴方の課題だから貴方が決めて下さいと突っぱねることは課題の分離なんだろうかと疑問がわきますね。二人は仕事のタスクを共有するわけですから、仕事仲間の関係としての人間関係を築くことも大切ではないかと思いました。
だって、もし先輩刑事であるラン子さんを、青山君が、「不思議ちゃん」などと名前をつけてよんだら、そのあともっと大変なことがおこりそうですよね。仕事のタスクを共有する仲間とひとつの場を共有するのですから、先輩のラン子さんは、彼が社会と協調して働きやすくなるにはどうしたらいいのかという観点から、青山君の質問を共通の課題として引き受けてもよいのかと感じました。キチンとした(!)アドレリアンならばどう考えるところでしょうか。
「なんて呼べば良いですか?」
「安藤とよんでくれると嬉しいです」
これでいいんじゃないかなあなどとドラマを見ていて思いました。
ながらく、私の中でブラッシュアップを忘れていたアドラー。
考えるきっかけをこのドラマを通じてもらいました。