「寂しい」という言葉

寂しい、という言葉

私の母は 80を超えた元気者です。周りの同級生を見渡すと、介護まっさかりから、

ぼちぼちと、その親を見送ったというお話しを候うことも増えました。

見送る年代になっているのですねえ。

そのなかで、ご主人をなくされ、遺された80代のお母様が「寂しい、寂しい」といっているので

寄り添っているというお話しを候いました。

私は寄り添っている彼女の優しさを、やっぱり彼女らしい優しさだなあと心が温かくなることを感じ、また、その言葉を素直に口に出してまわりにいえる、お母様の状況に、配偶者を亡くされてお辛い状況と、素直な性格と、言葉をうけとめ支える人がまわりにいてくれる状況にほのぼのとしたものも感じました。

配偶者をなくされお母様の寂しいというお気持ち、漠然とですがわかるきがします。

いままで当たり前のように時間をともにし、歩んできたパートナーがいなくなる。その寂しさははかりしれないものだろうとおもいます。

その寂しいと言う言葉を、つぶやきを受け止めてくれる相手がいる。

また、寂しいと言う言葉を、素直に言葉に出して言えるお人柄である。その環境はなかなか穏やかで、あったかい環境だなあって思いました。

寂しいとか、悲しいとか、辛いとか、

そんなどうしようもない気持ちを、素直に表現できる。

弱さをさらすことができるということは、

ご本人の強さであろうし、

その人を囲む環境の素晴らしさなんだろうなあと、感じました。

 

なんか「寂しい」という言葉そのものに引っかかっている自分がいます。

この言葉を素直に言葉にできることが、私には難しいなと感じるからだと思います。

 

寂しいっていう言葉を、素直に言葉にだせない自分の素直さのなさ。

いまは、その”素直さのない自分”を気がついたことを、大事にしようと思います。

なかなか、素直になれない。これはわかります。

私はこの「素直」な人の強さを、臨床を通じて数々みてきました。

やはり素直はすごい。

自分の感情を真摯にむきあうことができる。葛藤や煩悶や、ぐずぐずした言い訳なしに真摯にむきあえる。少しでもそうありたいとねがっています。

 

ニャンコ先生のようにジャンプするぞ!