「日本初、体外受精の話から」」タグアーカイブ

日本初、体外受精の話から。自然と淘汰とリスクを感じて:3

:前回のお話し:

日本初の体外受精の話からの続きです。

ただ、『生殖』というものは、大きな意味で色々なことがおこります。
個人的には不都合なことであっても、大きな種の一員としては自然な
ありようであることもあります。この自然なありようや淘汰の中にある生殖に
手を入れるという畏れ。忘れていけないですね。

『いきなり顕微』という言葉がありました。

聞いたことがあるかたもいらっしゃるかと思います。

私はいままで大きな言葉で体外受精と書いてしまっていますが、
本来は受精方法で表記は違いますね。

採卵して卵子をとったあと、受精方法には振りかけて自然な受精を待つ方法と、技術を使い一つの精子を卵子と受精させる
顕微授精という方法があります。

先日、採卵出来るものの受精せずが何度も続いている方に、
『どうして顕微を選ばないのですか?』と伺ったところ、
『色々検索すると恐いので・・・』と仰っていました。

私はふたつのことを思いました。
それはやはりせっかく採れている卵がもったいないということと、生殖医療に対する畏れです。

ある時期までは、精子に問題を感じても、自然な受精が出来る可能性があれば、まず振りかけによる受精をこころみて、
ダメな場合は次回から顕微授精を選択という流れがありました。

それが、あるときから、最初の採卵から顕微授精を選んでいるカップルが増えてきて、
どうして?と伺うと、せっかく採卵した卵を無駄にしたくないのでというお返事がかえってきて驚きました。
生殖にある、淘汰のプロセスを始めから外してしまっていいのだろうか・・・という畏れです。

しかしながら、私自身、だんだん顕微授精ということになれてしまっているのも事実です。
顕微と体外、なにがちがうんだろう。
結果として生まれた人間は、大きな意味で授かった存在であることには
かわらないのではという思いと、人間の介入はどこあで許されるのだろうかという畏れです。

こちらのサイトで顕微授精のリスクについて丁寧に説明されていました。

そのなかで、

近年の報告では体外受精・胚移植の手技によって赤ちゃんに異常がでるというよりは、体外受精にいたった不妊症カップルのなかにそのような要因があるのではないかと考えられております。しかし、現時点では明確な結論は出ていませんので、今後さらなる検証が必要と思われます。

これはその通りなのかなと感じます。
また、『生殖』そのものが、まったくの自然な経緯であっても、
色々なお子さんが誕生するという幅を持っているという認識は必要だと思います。

商品を買ってくるのとは違います。子供を持つことを『授かる』という言葉で表現する意味は、
私たちがよりよい商品を選ぶのではなく、授けられた子供を預かり成長のプロセスを寄り添うということが子育てなのかなと感じます。

そして、私たちは、親になる覚悟をもって過ごすべきなのだなとも改めて感じました。
私は20代にあれよあれよと妊娠し、出産しました。
ですので、こんなことを考えたことは正直ありませんでした。
そしていま、静かに考えてみれば、子供を授かって成長させるとうことはこんなことなんだなあと思います。
そう考えることで、ストンと納得できることも出来てくるように
思います。

私たちは生きる使命をもって日々を生きているのでしょう。
その使命には子供を預かり成長のお手伝いをするという使命もあるかもしれませんし、
また別の使命もあるかもしれません。
生かされているんだなと思いました。

生殖について考えていると、
だんだん自分がちっぽけな存在で
大きな種としての役割を、小さな小さな私が受け取って
私に出来ることをしているんだなと感じます。

日本初、体外受精の話から。自然と淘汰と:2リスクを感じて

前回のお話し: の続きです。

日本初の体外受精の話、続きです。

前回のお話し:

私が不妊治療のお手伝いをはじめてころは、まだ大学病院が主流でした。
それが、新宿の加藤レディースがダントツの勢いで日本のトップといわれるように
なり、ぐんぐん数が伸びていったのではないかと思います。当時の患者さんも、
地元の東海大学病院での体外受精のほか、新宿の加藤か山王(山王病院)などという迷う話もよくでました。

有名病院の数が限られていたとき、話題に出るのはやはり新宿の加藤レディースでした。
ある方は、『ここで妊娠出来なかったら、と思うと逆に恐くて行けない』とも仰っていて、
ぐっと背中を押した記憶もあります。

このKLCは、当時は今のビルではなく近所の一軒家でした。
当時通っていた患者さんが、入ると待合室のような喫茶店のようなコーナーがあって
時に院長先生がそこで話しかけてきたなどと話していました。

産婦人科のドクター、特に当時のドクターは、色々な意味で『熱い情熱』を持っていらっしゃる方が多かったと思います。
体外受精の費用が高くて、お金がありませんとボロボロの服を着て悲しそうにすると費用を負けてくれた(^0^;)
などという話もちらほら聞こえてきました。ときに、パワハラ?とか一方的な押しつけと思われるような
強引なアドバイスも見受けられ涙する方もいらっしゃいました、逆にその言葉によって奮起した方もいらっしゃり
治療が前に進んだといういこともあるのでしょう。

そんな熱い情熱を持ったドクター達がぐっと押し進めた不妊治療
こんにちでは当たり前の選択肢になり、妊娠を臨む方々には力強い味方であると
思います。

ただ、『生殖』というものは、大きな意味で色々なことがおこります。
個人的には不都合なことであっても、大きな種の一員としては自然な
ありようであることもあります。この自然なありようや淘汰の中にある生殖に
手を入れるという畏れ。忘れていけないですね。

日本初、体外受精の話から。自然と淘汰とリスクを感じて:1

日本初、体外受精の話から。自然と淘汰とリスクを感じて:1

先日、とあるドクターとお話しをしていて、日本初の体外受精の話になりました。
世界で初めての体外受精での出産はイギリス。
ルイーズちゃんという名前でした。記憶のある方も
いらっしゃるでしょう。

そのルイーズちゃんが赤ちゃんを産んだという話もニュースになりましたね。
そんな当たり前のことがニュースになるのかと驚きの気持ちと、
生殖というものに対する恐れも、ああそうなんだなと感じました。

このサイトは日本初の体外受精の話です。

http://www.asyura2.com/12/social9/msg/141.html

1983(昭和58)年10月14日早朝、仙台市の東北大学医学部付属病院で日本初の体外受>精児が生まれた。帝王切開で、体重2544グラム、身長44センチ。

いま34歳になられるのだなと思います。
ルイーズちゃんはその5年前だから39歳。

当たり前に妊娠し、出産してお母さんになる年齢ですね。
日本の国立大学で行われたこの不妊治療は当時大きなニュースになりました。
それは体外受精に対する恐れと、期待と、希望に満ちた大きな
ニュースです。

私には、ママ友がいます。そのママ友と私の子供は現在30歳。つまり
すでに日本では体外受精の技術が導入されていた時代です。
このママ友は、長らく不妊治療をされていました。
そして35歳の時に不妊治療終了宣言を病院側からされ、
泣きはらしたら妊娠したのよと私に語ってくれました。

この彼女が不妊治療をしていたころは体外受精はまだまだ遠い国の技術で
大学病院に通っていた彼女に朗報をもたらしてくれる技術ではなかったわけです。
また、不妊治療そのものが35歳で終了とされていた時代です。
そんなに昔のことではありません。
この認識の差は大きいですね。

2014年の統計では、出生児数の21人にひとりは体外受精での妊娠に
なりました。隔世の感があります。

私が不妊治療のお手伝いをはじめてころは、まだ大学病院が主流でした。
それが、新宿の加藤レディースがダントツの勢いで日本のトップといわれるように
なり、ぐんぐん数が伸びていったのではないかと思います。当時の患者さんも、
地元の東海大学病院での体外受精のほか、新宿の加藤か山王(山王病院)などという迷う話もよくでました。

ずーっと昔、昔。
でも、そんなにむかしではないころの話です

2に続く