まるごと一つの存在である人間を診る、ということ。

まるごと一つの人間

人を観察するときに、「まるごと一つの人間」を見ていると言うことは基本中の基本。肝心脾肺腎の5つに分けてよく見るのだけど、それはそれらのパーツが組み合わさり一つの人間になっているのではなく、一つの人間をよく見るときの観点としてこの5つの特徴を考え、その人間の特徴をよく理解していくための観点。よくみるためにさまざまな観点を設定することはできるけれど、それはみるためにせっていしているだけであって、みているのはまるごと一つの人間。

孫というのは、4分の1の私が入っています。でも、4分の1の私がその中に存在するわけではなく、彼を見るときの観点として4分の1の私があるということ。

目の前に存在する彼は一。
娘と婿ちゃんの二つの観点からみる。

あるいは、
祖父母という4つの観点から見る。
そんな観点から見がちだけど、まるごと一つの存在である
彼は一。

誰でもない一、

どうしても、私に似ているところはない??と私の観点を探してしまうけど
その観点があるように思ってしまうけど、それはただ観点であるだけであって、彼の存在は誰でもない、彼そのものでまるごと一つの存在。

人が
いまここに
存在する。

人の生まれてからここまでに至る状態を、時系列で考え、いまここに存在する人を診る。

いまここに存在する人間を、彼の先祖から受け継がれた命がいまここに存在し、そして未来に向かってまた存在する。

いまここに存在するということは、
私が生を受け、生まれ落ち、生老病死の時をすごしていく中のひとつの時間に存在すると考えます。

そして、また私という存在は祖先から点でつながり、線の流れをもち、今、この私が存在し、また次の未来へとつながっていくという歴史的な存在の流れであると理解しました。

この2つの軸を体感し今ここに存在する彼のことを診ています。
存在するということの愛おしさを感じています。

いま、ここに存在する。
そのことだけで充分ありがたく、感謝、なのです。

ひい婆ちゃんの律子と、新入りニャンコのギルバルス。

仲良しコンビです。