学び、というのは、本当に楽しい趣味だと思います。
私自身、勉強は趣味だと思っていますし、その趣味の延長のような形で、仕事がなりたっており、その仕事(鍼灸臨床)からフィードバックされるように、自らの学びが深まっていくことに喜びを感じています。
心理学的な学びは、アドラー心理学に軸足をおいています。
ただ、カウンセラーという立場になろうと思ったことはなく、そのあたりには
敬意をもって距離をおいていました。
でも、このカウンセラーという言葉が安易に使われる現状に、うううううむです。
そして、ふと、野田俊作先生の言葉に戻っている自分を発見しました。
以下は自分自身が書いたものですが、なんか納得なので、掲載しておきます。
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アドラー心理学を学ぶこと
アドラー心理学を学び、私の心理学的なアプローチの基礎になっています。
まあ、認定のカウンセラーになろうという気はなく、自分自身の生きる道の道標として
とても納得できるところなので、心の中に置いてあるという感じでしょうか。
私自身は天邪鬼です。そして自分が”協力的ライフスタイル”でありたいなあと
願っています。天邪鬼はなかなか素直に協力的ライフスタイルであることができません。
それでも、人として協力的ライフスタイルをいきたいと願っています。
願っていても、なかなか自分を変えることができないので、ときどき振り返り修正。
何年も長く修正をやっていると少しずつ変わって行けると信じているのです。
少しずつでいいと思っています。
自分の使い勝手のいいライフスタイルを変えることは大変。
だって、長年使いやすく使ってきたんですからね。
ただ、そのライフスタイルで困っていたり、ライフスタイルを変えたいと思ったら
いつでも変えられる。
そう信じています。
私は自分の幸せよりも、自分の周りにいる人の幸せのためにいきたい。
ついつい自分が使いたくないライフスタイルが顔を出しますが、
あ、違うなと感じ、修正。そんなことの繰り返しです。
神経症的策動について
さて、アドレリアンの野田さんのブログを読んでいたらこんな記事を見つけました
”「神経症的策動 neurotic maneuver」というものがあって、カウンセラーが自分の失敗をうまく言い逃れする技術だ。ある言い回しをすると、言い訳として通用する。どうして言い訳として通用するかというと、世間がそういう言い訳を許容するからだ。たとえば、患者さんが「この症状さえなくなったら、いくらでも働きます」と言うと、ある治療者は「早くよくなるといいですね」などと言って、「そんなことを言っていないで早く働きなさい」などとは言わない。そうして、神経症者は永遠に「この症状さえなくなったら」と言い続け、治療者は永遠に「早くよくなるといいですね」と言い続ける。こうして神経症者は非生産的な生活を続けながら、世間と、さらには自分自身とを、欺き続ける。そこに親などからの経済的援助や、あるいは社会保障がからむと、いわゆる二次的疾病利得が生じて、神経症が主たる収入源になってしまい、患者業はいつまでも商売繁盛することになる。”
人は気づかずこの言い訳を使ってしまい、聞いている方はなんとなく納得させられてしまいます。
患者さん;風邪の症状がいつもでて、身体が熱ぽいので仕事ができないのです
カウンセラー:風邪の症状がよくなるといいですね。そうしたら仕事ができますね
患者さん:はい、風邪の症状さえよくなれば、仕事ができます。私にはいつも風邪の症状があるし、
いつ風邪の症状が出てくるか不安なので、仕事は出来ないのです。
カウンセラー:そうですね。風邪が早くよくなるといいですね。
患者さん:はい、風邪の症状さえなければ働けます。ただ、仕事にいくと風邪を引くのではないかと思うので、職場にもいけません。
この方の「風邪」は、
- 風邪を引いていれば仕事ができない
- 仕事にいくと風邪を引くと思うと仕事ができない、
- 風邪の症状がいつ出てくるか不安で仕事ができない。
つまり、風邪があってもなくても、仕事は出来ないという説明になっています。
問題は”風邪”ではないのですよね。
ですので、この風邪という問題を外して、”仕事”と自分はどう向き合いたいのかを
率直に考えてみなければ、いつまでも「風邪」というアイテムをつかって、
自分自身が仕事とどう向き合うのかというタスクを正面から考えることができなくなっています。
しかしながら、この状況にご自身が不都合を感じているのならば、
変えるときなのです。その時が来ているのです。
このアドラー心理学の考え方はとても厳しい考え方だなと思います。
そして厳しくも、人生を前に押してくれる考え方だと思います。
人生は短い、そして美しい。
私たちに許されている時間を、その美しく短い人生に輝きをもたせて歩んで行けたら
いいなあって思っています。