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第一章 5)勇気づけ

5)勇気づけ

スマイルとパセージの大きな違いの一つに、勇気づけを出してくるタイミングもあります。スマイルは第三章で初めて出てきます。
第一章で子どもの行動を理解しようとし、正の注目負の注目、不適切な行動などを学び、第二章で聞き上手になろうとし、負の注目、罰、聴き上手ということを学び、その上で、第三章で初めて「子どもを勇気づけよう」という観点を学びます。

パセージでは最初から勇気づけがでてきます。
つまり、勇気づけはアドラー子育ての中心であること。そしてこの勇気づけはアドラーの価値である子育ての目標を踏まえれば、技術的な細々としたことより、ぐっと近い立ち位置なのかなと思います。つまり子育ての目標である1・私には能力がある、2・人々は私の仲間だを踏まえることをしっかりし、その表現をあれこれと学んで行くんだよというのがパセージのやり方なのかなと感じます。

勇気づけをはじめよう

1.適切な行動や適切な側面を探そう
2. 短所ではなく、長所に焦点を当てよう
3. 結果よりも、プロセスを重視しよう
4. 子どもの成長を認めよう
5. 他の子どもと比較しないでおこう
6.親子は仲間です。

なぜ勇気づけなのか、勇気づけって何?
勇気づけってなに?

アドラー心理学の子育て方は「勇気づけ」という言葉にあらわされるのではないかと思います。

さて、その前提として、アドラーを踏まえた、行動の目標、つまり子育ての目標をおさえておかなければなりませんね。

アドラーでは子育ての心理的な目標を2つあげています。

子育ての目標(行動面)
1)自立する、2)社会と調和して生きる
子育ての目標(心理面)
1)私は能力がある 2)人々は私の仲間だ

この2つの目標を達せられるように、子供に対して援助していくことが、勇気づけです。

行動面の自立するを達成する心理面のありようは「私には能力がある」という気持ちです。そして社会と調和して生きるためには、人のことを信じることが出来ることが必要で、「人々は私の仲間だ」と思えることが大事です。

人間関係、まず親子からですね。

アドラーの理念を学び、アメリカの独立宣言へつながる??

アドラーの復習、スマイルとパセージという野田さんの二つの子育て講座テキストを振り返っています。少しづつ構成が違っていて、野田さんの変化をみてとれるような気がしています。

そのなかで、たての関係よこの関係がでてきて、これは言うほど簡単じゃない、「家族の価値」人間関係の価値に係わる根源的な話しだと思いました。

 

いま、アメリカの独立宣言の音読をしています。

We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.-

(私たちは、すべての人間は平等に創られ、創造主によって一定の奪うことのできない権利を与えられており、その中には生命、自由、幸福の追求などがあるという真実を自明であると信じています。)

ここにたどり着いた理由は、いろいろなスピーチを読んでいて、 that all men are created equal すべての人間は平等に創られている。というフレーズが出てくるのです。政治的なスピーチの中では強く語られています。この原点はどこと思っていたら、この独立宣言だよと教えられました。

平等という言葉は、アメリカの独立宣言の中で出てくる、植民地からの開放、人として国家としての平等を声高く宣言するものであるのですねえ。

そして、まだ、まだまだ、私達はこの平等という言葉を理解し、価値を理解し尽くしていないのではないかと思います。

長らく学んできた、アドラー。そしてなぜだから続いているオンライン英会話のレッスン。こんなところでつながって、本当に面白です。

アメリカ独立宣言 1776
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2547/#enlist

第一章: 3)正の注目、負の注目、そして無視・権力闘争

さて、スマイルパセージの復習
人間関係の注目(関係性の始まり)について考えましょう

3)正の注目と負の注目

悪循環を断ち切るために、まず親が変わろう。

子どもの不適切な行動をかえてもらうには、口をすっぱくしていうのが正解なのでしょうか?

いえいえ、それでは帰って親子関係が悪くなり、悪循環に陥り、行動の目標が達成できません。

まず、最初にすることは「正の注目も、負の注目も与えないで、子どもの行動を与えないで観察する」ことです。

正の注目:

子どもの行動に対して親が、喜びや親しさのようなプラスの感情をもって関心を示すこと

負の注目:

子どもの行動に対して、親が怒りや不安のようなマイナスの感情をもって関心をしめすこと

しっかり観察して、状態を見極めてまず親がかわりましょうねえ。
無視はつらいですね、仲間だと思えなくなります。また注目をえようと、不適切な行動にはしるかもしれません。

また、親の注目に対して、ある状態から高ぶってしまうと権力争いになってしまいます。
権力闘争が続いている限り、親が子どもを援助することはできません。
権力闘争から降りる、まず親がしなければならないことです。

 

正・負の注目と無視:仕事の場での共同体感覚

 

正負の注目、そして無視、権力闘争と考えると、これは人間関係を端的にだらわしますね。

仕事のタスクは家庭のタスクよりは、達成しやすいタスクです。

なぜならば、仕事という場に置いてだけ達成すればよいからです。

仕事場で、スムーズに人間関係を結ぶということは仕事場という一つの共同体の一員(仲間)であり、仕事の能力をもっているということが大切ですね。

この能力に関して、人それぞれの状況があるのが仕事場でしょう。

私は、仕事場においてこの極端な事例を体験しました。

それは能力のある人が能力のない人には負の注目の指導をし続け、

雇用主とは自分の仕事に必要最低限の返事以外はいっさいせず、無視し続けたのです。

この結果、この方は、ご自身には高い能力はあったのだとは思いますが

共同体の一員とはんだらず、非常に居心地が悪い状況であったと思いました。

正の注目、負の注目。仕事場においては、
・お客さんには一定のサービスを提供すれば、相手からは喜ばれる。

という状況があります。

自分に能力があれば、相手を指導する立場になければ、行動変容をおこさせるための

注目は必要がないので、割合とコミュニケーションがとりやすいでしょう。

しかしながら、育てなければならないスタッフがいて、自分には能力がある、相手には能力がないというときに、共同体の意識がなければ、強い負の注目や、無視などをしがちなのかと思います。

仕事場の人間関係は権力闘争をするつもりがなくても、そもそもの雇用関係、

入社年次、仕事への経歴など「能力」には差があります。このときに一つの共同体としての認識、関わり方は、ベーシックな人間関係の作り方につながるのかなと思います。

人の目標とする価値

行動:自立する、社会と調和して生きる

心理:私には能力がある、人々は仲間だ

行動面で自立し、大きな意味で社会と調和していきていければ、人生の中ではOKですし、その小さな共同体(仕事場)において、不都合がおきても乗り越えていけます。

ただ、その小さな共同体(仕事場)において、行動面、心理面の価値をしっかりもち、実践することは、共同体に属する人達との人間関係はよくし、人生の味わいが向上しますね。

まあ、このあたり、共同体の考え方や人生の考え方もかかわってくるのかなって思います。

第一章: -2)どんな場合に不適切な行動をする?

スマイルパセージ復習です。
第一章の子どもを理解するです。
1では、子育ての目標を学びました。
さて、つぎ2,3へと進みます(^^)。


2)どんな場合に子どもは不適切な行動をするか

不適切な行動をする子ども4つ

1)不適切と知らない

2)知っているけど、適切な行動を知らない

3)両方知っているけど、適切をしてもダメと信じている

 (勇気がくじかれている)

4)不適切な行動でのぞむ結果をえている

行動の原因ではなく、目的を考えてみましょう。
たとえば、ケンカしている兄弟。その原因は?と考えますね。
お兄ちゃんが蹴っ飛ばしたから、弟がおもちゃを取ったから。

どちらも原因ですね。

ただ、原因からは解決は生まれません。
目的を聞いてみましょう

弟:お兄ちゃんのもっているおもちゃを使いたかった

兄:このおもちゃで遊びたい。だから貸したくない

行動の目的がわかりましたね。

そこで二人に提案が色々出来ると思います。
ケンカという殴り合いの解決ではなく。
弟に、「お兄ちゃんのもっているおもちゃを貸してってお願いしたら?」と提案

お兄ちゃんには「弟におもちゃを貸してあげたら」と提案。
お兄ちゃんには他に、「一緒に遊んだら?」などなど、さまざまな解決法が浮かびますね。

原因じゃなく、目的を尋ねてみることで、ケンカという暴力によらない解決の糸口がみえるようですね。

 

 

カウンセラーという言葉の安易さに・・・

学び、というのは、本当に楽しい趣味だと思います。

私自身、勉強は趣味だと思っていますし、その趣味の延長のような形で、仕事がなりたっており、その仕事(鍼灸臨床)からフィードバックされるように、自らの学びが深まっていくことに喜びを感じています。

心理学的な学びは、アドラー心理学に軸足をおいています。
ただ、カウンセラーという立場になろうと思ったことはなく、そのあたりには
敬意をもって距離をおいていました。

でも、このカウンセラーという言葉が安易に使われる現状に、うううううむです。

そして、ふと、野田俊作先生の言葉に戻っている自分を発見しました。
以下は自分自身が書いたものですが、なんか納得なので、掲載しておきます。

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アドラー心理学を学ぶこと

アドラー心理学を学び、私の心理学的なアプローチの基礎になっています。

まあ、認定のカウンセラーになろうという気はなく、自分自身の生きる道の道標として

とても納得できるところなので、心の中に置いてあるという感じでしょうか。

私自身は天邪鬼です。そして自分が”協力的ライフスタイル”でありたいなあと

願っています。天邪鬼はなかなか素直に協力的ライフスタイルであることができません。

それでも、人として協力的ライフスタイルをいきたいと願っています。

願っていても、なかなか自分を変えることができないので、ときどき振り返り修正。

何年も長く修正をやっていると少しずつ変わって行けると信じているのです。

少しずつでいいと思っています。

自分の使い勝手のいいライフスタイルを変えることは大変。

だって、長年使いやすく使ってきたんですからね。

ただ、そのライフスタイルで困っていたり、ライフスタイルを変えたいと思ったら

いつでも変えられる。

そう信じています。

私は自分の幸せよりも、自分の周りにいる人の幸せのためにいきたい。

ついつい自分が使いたくないライフスタイルが顔を出しますが、

あ、違うなと感じ、修正。そんなことの繰り返しです。

神経症的策動について

 

さて、アドレリアンの野田さんのブログを読んでいたらこんな記事を見つけました

”「神経症的策動 neurotic maneuver」というものがあって、カウンセラーが自分の失敗をうまく言い逃れする技術だ。ある言い回しをすると、言い訳として通用する。どうして言い訳として通用するかというと、世間がそういう言い訳を許容するからだ。たとえば、患者さんが「この症状さえなくなったら、いくらでも働きます」と言うと、ある治療者は「早くよくなるといいですね」などと言って、「そんなことを言っていないで早く働きなさい」などとは言わない。そうして、神経症者は永遠に「この症状さえなくなったら」と言い続け、治療者は永遠に「早くよくなるといいですね」と言い続ける。こうして神経症者は非生産的な生活を続けながら、世間と、さらには自分自身とを、欺き続ける。そこに親などからの経済的援助や、あるいは社会保障がからむと、いわゆる二次的疾病利得が生じて、神経症が主たる収入源になってしまい、患者業はいつまでも商売繁盛することになる。”

人は気づかずこの言い訳を使ってしまい、聞いている方はなんとなく納得させられてしまいます。

患者さん;風邪の症状がいつもでて、身体が熱ぽいので仕事ができないのです

カウンセラー:風邪の症状がよくなるといいですね。そうしたら仕事ができますね

患者さん:はい、風邪の症状さえよくなれば、仕事ができます。私にはいつも風邪の症状があるし、

いつ風邪の症状が出てくるか不安なので、仕事は出来ないのです。

カウンセラー:そうですね。風邪が早くよくなるといいですね。

患者さん:はい、風邪の症状さえなければ働けます。ただ、仕事にいくと風邪を引くのではないかと思うので、職場にもいけません。

この方の「風邪」は、

  • 風邪を引いていれば仕事ができない
  • 仕事にいくと風邪を引くと思うと仕事ができない、
  • 風邪の症状がいつ出てくるか不安で仕事ができない。

つまり、風邪があってもなくても、仕事は出来ないという説明になっています。

問題は”風邪”ではないのですよね。

ですので、この風邪という問題を外して、”仕事”と自分はどう向き合いたいのかを

率直に考えてみなければ、いつまでも「風邪」というアイテムをつかって、

自分自身が仕事とどう向き合うのかというタスクを正面から考えることができなくなっています。

しかしながら、この状況にご自身が不都合を感じているのならば、

変えるときなのです。その時が来ているのです。

このアドラー心理学の考え方はとても厳しい考え方だなと思います。

そして厳しくも、人生を前に押してくれる考え方だと思います。

人生は短い、そして美しい。

私たちに許されている時間を、その美しく短い人生に輝きをもたせて歩んで行けたら

いいなあって思っています。