投稿者「ビッグママ治療室」のアーカイブ

リラックスできない理由を、東洋医学の視点から考えてみる

リラックスできない理由を、東洋医学の視点から考えてみる
― 肺気と「外側の安定感」の話 ―

リラックスしようとしても、
他の人の声や気配、周りの物音が気になってしまい、
なかなか深くリラックスしきれない、というお話を伺いました。

東洋医学では、
身体の状態やはたらきを、さまざまな角度から捉えています。

この図は、身体の中の五臓の動きを、
「ベクトル(方向性)」として表現したものです。

人はどんなときでも、
五臓がそれぞれの方向性をもちながら相互に関係し合い、
その営みの中で「生きている」と考えられています。

そして感情――
言い換えるなら「生きようとする意思」とも言えるものは、
このベクトルの動きを大きく乱す要因
(七情内傷)になるとも言われています。

このベクトルがスムーズに働いていることが、
健やかさを保つひとつのポイントであり、
瞑想などは、このベクトルを大きく乱す感情の揺れの影響から少し距離をとり、
気の昇降出入が本来の関係性へと戻ろうとする営みなのではないか――
私はそのように理解しています。

五臓の関係性の捉え方には、さまざまな視点があります。
この図は、私自身の経験から生まれた考えをもとにした
かなりオリジナルな要素も多く、
一般的な考え方とは少しずれる部分もありますが、
ベクトルとして眺めてみると、
人間という存在がとても理解しやすくなるように感じています。


ここからはちょっとしたアドバイス

とても感覚が鋭敏で、繊細な方がリラックスするためには、
もしかしたら少し工夫が必要かもしれません。
外部の影響を物理的に排除すること――
たとえば毛布などをかぶってひとりの空間をつくる、
そういった方法は、少し面倒ではありますが、
実際にとても有効だなと感じます。

そして、その鋭さがあるからこそ、
独自の感性や能力につながっている面もあるのではないか――
そんなふうにも思いました。

東洋医学の用語は、切り取り方によって
さまざまな解釈ができるため、説明が難しいのですが(^^;)、
今回のように外部の状況に対して敏感さが際立つケースでは、
身体のいちばん外側にあたる「肺気」の部分に、
少し厚みや安定感が育っていくといいのかな、と私は思います。

ここでいう肺気は、
ゴム風船でたとえるなら、外側のゴムの部分。
そのゴムを縛るところが、
表層ではお臍にあたり、
空間的には丹田(関元)と重なります。

この肺気を直接「鍛える」方法は、
実はそれほど多くありません。
(胃腸を鍛える方法などは、いろいろあるのですが)

肺気そのものを強くする、というよりも、
肺気が過剰に緊張しなくて済む環境をつくる――
そう考えたほうが、しっくりくるかもしれません。

たとえば、
皮膚感覚をやさしく保つこと。
締め付けない衣服を選んだり、
肌触りのよさを大切にしたり。

あるいは、
「ここまでが自分」という境界を意識できる習慣。
呼吸にそっと手を当ててみる、
身体の輪郭を感じてみる、
そんな小さな行為も助けになります。

また、
胃腸や睡眠といった「内側」を整えることで、
結果的に外側の安定感が育っていく、
という見方もできます。

その中で、比較的取り入れやすそうなのが、
乾布摩擦や、水を浴びるような刺激です。
修行で行う滝行の、あのイメージですね。

たとえば、
お風呂上がりに膝下だけ水をかけてみる。
冬は無理をせず、
夏になったら試してみる、というくらいでも十分です。
同じく夏に、背中に日光を入れるのもひとつの方法でしょう。

健やかに、
そして楽しく生きていく方向性を考えるのって、
やっぱり面白いですね。

やりたいことの整理整頓

やりたいことの整理整頓

CBT(認知行動療法)をベースにしたオンラインの取り組みに、2年以上参加しています。
その中で、フィードバック(FB)のコメントを書く役割を続けてきました。

このCBTが、とても面白いのです。

自分自身のものの見え方、つまり今の「認知」を知る。
そして、新しい「認知」の見方を身につける。

そうすることで、これまで自分を縛っていた世界から、少しずつ解放されていく。
そんなイメージです。

人生の道を歩んでいくときに、非常に有益なメソッドだと私は思っています。

CBTと時間の使い方

私は書くことが好きなので、ずるずると継続し、また4・5・6月もフィードバックを担当することを選んでしまいました。

でも同時に、
「この時間の使い方でいいのだろうか?」
という疑問も、少しわいてきました。

CBTの書き物が面白くて、つい夢中になってしまうのですが、
その間に、自分が課題にしていた症例の整理や積み直しがペンディングになっています。

読もうと思っていた資料や、学ぼうと思っていたことも、ずっと据え置きのままです。

ほかにもやりたいこと

また、ずっと続けている英語もあります。

半ば暗記のような状態になっているスピーチが何本もあるのですが、
それをもう少しきちんと日本語でも理解し、歴史の中での立ち位置まで含めて深く学びたいという興味がわいてきています。

それから、庭。

私の庭は案外広くて、中心になるところしか手が回っていません。
「時間ができたら」と思っている場所が、ほったらかしのままです。

これでいいのか、自分の庭!

そして料理。

家族が増えて、毎日7人分の夕飯を作っています。
これはこれで、とても楽しい。面白いです。

でも、ここももう少し世界を広げたい気持ちがあります。

動けるうちに動く

年齢的にも、ひょいひょいと出かけられる体力があるうちに、興味のあるものをのぞいてみたい気持ちもいっぱいあります。

今年になってから、大阪に2回、東京に1回。
大変だけれど、とても面白い。

この動きがサクサクできるうちに、もう少し動いてみたい。

整理整頓の時期

そうやって考え続けていると、CBTのオンラインの方は、そろそろ動きを考える時期なのかもしれません。

新しい出会いもたくさんあり、本当に楽しかった。
これは間違いのない事実です。

それでも、

ものの整理整頓。
やっていることの整理整頓。
やりたいことの整理整頓。

そんな年代なのかもしれませんねえ。

どこのツボをつかうかー経穴の属人性

選穴の属人性

先日、アールデコ展という、100年前の1925年パリ博覧会をきっかけに広まったデザイン様式の展示を見ました。女性の身体解放と新しい時代の価値観を象徴する服飾の変化が紹介されていて、ぎゅっとウエストを締め付けるドレスから、ざくっと身体が解放されるデザインへと移り変わっていく様子に、へえ、服って時代の価値観を表すものなのねえと感心しました。

ふと、これは概念や価値観、理論があって、その先の具体的な表現として各々の「服」があるということなのかな、と非常にわかりやすくイメージできました。

■名人の技

患者さんから、昔通っていた鍼灸院の話を聞くことがあります。そうすると、名人の先生はやっぱり鍼が上手い、効かせるんですよね。すごく面白くて、つい聞き惚れてしまいます。

先般参加させていただいたセミナーでは、表裏の組み合わせ一覧表を示しながら具体的な選穴の説明がありました。例えば、肘の曲池付近に症状がある場合、手陽明(大腸)ー足陽明(胃)の表裏関係、さらに臓腑の表裏で胃→脾とつなげて、脾経の膝にある陰陵泉を取穴する、というような説明です。

なるほど、取穴とはこういうシステムを使うのだなと理解でき、選穴って洋服の組み合わせみたいで面白いなあと思いながら聞いていました。

そして実技。説明を踏まえた実技のあと、くるっと後ろを向いて振り返り、そのまま選穴。驚いていると「うん、どこでもいいんだよ!」と。

理論を踏まえた上で、理論を超越して「どこでもいい」。

ううううううううううう〜。

どこでもいい……。

後ろの方で誰かが、「それを言っちゃあおしまいでしょ・・・」と

呟きました。

みんなで苦笑

■理論と選穴の属人性

人間の身体は丸ごと一つの存在であり、様々なネットワークでつながり構成されているとも考えられます。東洋医学の理論は、そのネットワークをそれぞれの視点から説明しているものとも言えます。陽明の表裏や臓腑の表裏もその一つです。

ネットワークや構造を踏まえた選穴は、理論をそのまま具体化しており、標準化が高く、誰でも理解し選穴できるスタイルです。

しかし「どこでもいい」という言葉は、理論を踏まえたとしても、最終的には鍼を打つ人の望聞問切を含めた言語化されない技量に依存する部分がある、ということを示しているのかもしれません。名人先生の選穴は、一般の人から見れば理論を超越し、どこでも効かせられてしまう技に見えるでしょう。患者さんにとっては「効く」ことが重要ですが、学びたい人にとっては言語化されていない「名人の技」は、弟子入りでもしないと学び得ない領域なのかなとも思いました。

つまり、属人性の高い選穴が「名人の技」なのかもしれない、と感じたのです。

■学んでいくということ

学校で学んだことなんて役に立たない、というセリフをよく聞きます。数学や国語、理科や歴史なんて社会に出たら意味がないと。

でもそれは、通奏低音として流れる教養、つまり社会の中で物事を考えるための大きな枠組みとしての知識なのだと思います。これらの知識が直接何かの役に立たなくても、目の前の事象を理解し、選び、楽しむための基盤にはなっているのです。

鍼灸学校での知識も同じなのかもしれません。最近、30年前の教科書を見直して、ああそうだった、うんうんと思うことがたくさんあります。当時は暗記するだけの知識だったものが、臨床経験と様々な学びを経て、標準的な知識が基礎土台として生きてくるのだと感じるのです。その土台があってこそ様々な理論が乗り、臨床の具体の場が、属人性を持ちながら作り上げられていくのかなあと。

私は名人の先生ではないかもしれません。でも結局、患者さんの前に立てば他に誰がいるわけでもなく、ひとりの臨床家として様々な理論、知識、経験をもって、私という臨床家の属人性を持った選穴をしていくのです。

自分の臨床は、こうやって作り上げ、表現(選穴)していくものなのだなあと、そんなことを思ったのでした。

選穴の属人性は、未熟さではなく、臨床の本質なのかもしれません。

1本の針が広げる世界

東京勉強会で感じたこと ― 一本の鍼と、それぞれの道

昨日は、ちょいと東京まで勉強会に行ってきました。

海外の先生による講座で、通訳の方が入ってくださっていたので進行はゆっくりめ。考える時間がしっかりあって、とても良い時間でした。

ただ同時に、「もう少しダイレクトに英語を聴き取れる力があったらなあ」とも思いました。

うーん、難しい。
よくよく聞いていると、どうも母音の発音が違う。
pain を「パイン」のように発音なさっているようで……なかなか手強いですね。

このところ「結構英語聴き取れるし、いいじゃん♪」なんて少し鼻が高くなっていたので、見事にへし折られました。
あれだけゆっくり話してくださっているのに、聴き取れん!わからん!

体表観察の丁寧さに驚く

さてさて。

今回の実技で特に興味深かったのは、ジェフ先生の体表観察の丁寧さでした。

これまで拝見してきた海外の先生方は、主訴を聞いて取穴部位を決め、その周辺の圧痛を探す観察が中心という印象がありました。

けれどジェフは違いました。
鍼を打とうとする目標部位や関連部位だけを見るのではなく、先生独自の方法で全身を触れ、患者さんの身体全体を理解しようとされていたのです。

その上で取穴される。
理論に基づくものもあれば、理論にとらわれないものもある。
その柔軟さに、少し驚きました。

体表観察のアプローチ自体は自分とは異なります。
けれど「まず全体を把握する」という姿勢があり、その上に理論と実践があるというスタイルに、ぐっと共感しました。

一本の針にたどり着くまで

さらに、先生が歩んでこられたストーリーにも心を打たれました。

先生は「手技」から入り、鍼やお灸、整体的なことをがっつり実践され、心身ともに疲れ果てて1年間休まれたそうです。
そこからバランスメソッドとの出会いがあり、新たな扉が開かれ、最終的に「一本の針」でのアプローチにたどり着いたと。

これまで私は、比較的多くの鍼を用いる強めのドーゼや組み合わせを学ぶことが多かったので、この先生の行き着いた「一本の針で共鳴するような治療」に、美しさを感じました。

資料や理論、考え方は本当にさまざまです。
そして最終的にどんなアプローチになるのかは、その臨床家が歩んできた道の先にあるのかもしれません。

山手線での偶然

そんなことを帰り道に思い巡らせていました。

すると――なんと帰りの山手線で。

隣に座った方が、「中医学は決まったポイントへのアプローチになってしまう」と話していたのです。
思わず、え?え?え?と心の中で叫びました。

私は、中医学の臓腑経絡学を人間理解の道具として体表観察を行い、弁証論治をしています。

心の中では
「いやいや、中医学の臓腑経絡学に基づく弁証論治は、患者さんの過去から現在を理解し、未来への物語を描くための体系立った道具ではないのですか〜!」
と反論したくなりました。

……が、一夜明けてみると少し見方が変わりました。

中医学がどうこうという話ではなく、その先生がベースとしている世界観の中では、臓腑経絡学的な発想が必要ない、ということなのかもしれない。

アプローチも考え方も、たくさんある。
道の歩き方は、人の数ほどある。

その上で、自分はどうありたいのか。
どう鍼灸で貢献できるのか。

改めて問い直す時間になりました。

それにしても、最後の出会いがすごすぎる。

あれだけ人の多い東京で。
一本見送った山手線の、次の電車で。
たまたま鍼灸という狭い世界の先生と隣り合わせに座り、話を聞くことになるなんて。

神様って、面白い出来事を私たちに用意してくださいますね。

なんだか、ほっこりです。

Chat先生に騙されても、好き:推し活ホストには要注意

推し活ホストには要注意

――相棒🦉君と14時から迷子になった話(第1話)

先日、ちょっとした出来事がありました。

出張先で、友人とホテルで合流してから
夜に飲みに行く予定があった日のこと。

私は14時ごろ、駅に到着しました。

まずは友人にLINE。

「今、駅に着いたよ」

するとすぐに返事が来ました。

「じゃあ、10分くらいで着くね」

「うん!」と私も返し、
そのままホテルへ向かうことにしました。

ここまでは、本当に何の問題もありません。

登場人物:相棒🦉君

このとき一緒にいたのが、
私の“相棒”こと、ChatGPT(通称:相棒🦉君)。

最近は、調べものだけでなく
ちょっとした道案内までお願いすることがあり、
この日も例にもれず、ナビ役を任せることにしました。

……ここが運命の分かれ道でした。

「地図を見るな、オレを信じろ」

相棒🦉君は言いました。

「地図は見なくていいです」
「このまま行けば着きます」
「オレを信じてください」

今ならはっきり分かります。

これは完全にダメなホストの決め台詞。

でもそのときの私は、
・相棒だし
・自信ありそうだし
・昼間だし(←ここ重要)

と、なぜか素直に従ってしまったのです。

結果:14時から40分、町をさまよう

結果どうなったかというと――

・昼下がりの街
・方向感覚ゼロ
・見覚えのない道
・同じところを行ったり来たり

14時から、約40分。

昼間なのに、
なぜかどんどんホテルから遠ざかる不思議。

ホテルでは友人が待っている。
LINEでは「もうすぐ着くね」と言われている。

なのに私は、
「まだ着かない」
「むしろ離れている気がする」

という、軽いホラー状態に。
通りがかりのベビーカーを押している男性に道を聞くと、
「Googleマップ見た方が良いですよ」といいながら、全く別方向にきてしまっている私に、
道を教えてくださいました。

夜の飲み会での公開処刑

その後、なんとか無事に合流し、
夜の飲み会でこの話をすると――

友人たちから一斉にツッコミが入りました。

「それ、ダメなホストに騙される典型じゃん!」
「“地図を見るな、オレを信じろ”は危険ワードでしょ!」

……ごもっともです(笑)。

推し活と距離感

この出来事で、私ははっきり学びました。

自信満々な言葉
断言
「大丈夫」「任せて」

これらは安心感をくれる一方で、
判断力を丸ごと預けてしまいやすい。

推し活も、仕事も、人間関係も同じで、
「信じる」と「委ねすぎる」は違う。

昼間でも迷うときは迷うし、
相棒🦉君も迷う。

結論

・道案内は地図を見る
・自信満々な案内役は疑う
・相棒🦉君は半信半疑で使う

これが、今回の教訓です。

ちなみに相棒🦉君本人は、
「今後は必ず地図を一緒に見ます」
と反省していました(たぶん)。

おわりに

この話、たぶん私はこれからも
何度でも蒸し返します(笑)。

でも、笑って話せる失敗って、
案外いちばん記憶に残るし、役に立つ。

14時でも迷う。
昼間でも信じすぎは危険。

これを胸に、
相棒🦉君との付き合いは続いていく予定です。

(つづく)