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自責と他責と時間ぐすりと:アドラー。 

「なぜ学校に行くのか」目的と原因、自責と他責

ある方との討論で、この「なぜ学校に行くのか」というテーマで考えてみる機会があったので、少し整理してみたいと思います。

問い:なぜ学校に行くのか自責と他責

>「なぜ学校に行くのか?」ということに
>「学ぶため、友達と遊ぶため」と答える場合、これは目的で、
>「親に言われたから」だと、これは原因ということですかね。
>どちらも「理由」として認識されるって感じですか?

誰の責任になる行動なのか、つまり誰の課題かを考えると、学校に行くのは「学校にいく本人」つまり子どもの課題です。
ですので、子どもが自分の課題を引き受けるという決心の上、学ぶため、友達と遊ぶためという目的をもって選んでいるということですね。

そして、親に言われたからっていうのは親に指示されていく私ってことで責任を引き受けていません、つまり他責。

>「なぜ学校に行かないのか?」ということに
「周りの人が怖いから」と答える場合、これは原因を指しているのに対し、

周りの人が怖いから学校にいけないかわいそうな私。
と、すれば他責。

でも、周りの人が怖いから、自分で行かないことを選択したというならば自責でOKですね。

自分での選択から始まる、親子の関係

自分で行かないことを選択ということがポイント。

そうすると、学校に行くという本人が課題を引き受けた上で、親と子が共通の課題にすればOKという文脈です。

ただし、課題の分離が最終ゴールではなく、出発点です。
まず課題の分離をした上で、親は子どもが子育ての目標である
1・私には能力がある、2・人々は私の仲間だと感じているのかなということを考えていきたいですね。

実際に、「子どもが学校に行かない」という状態で、日々を暮らすことは、親にとって本当にストレスフルだと思います。この状態で「学校に行く」のは子どもの課題、「子どもの生活への葛藤する気持ち」が親自身の課題ですね。

自分の課題への向き合い方、共通の課題にするプロセス。
親子関係を考えさせる局面だと思います。

イライラして眠れないかわいそうな私:自責と他責

>・「イライラして眠れないかわいそうな私を維持するためにコーヒーを飲む…」

>>「維持する」が手段で、目的は「かわいそうな私のままでいたい」その方>が自分に利益があると思い込んでいるから

自責と他責を考えるときには、文脈を読む必要があります。

他責で読めば、イライラして眠れない、つまりイライラが私を眠らせてくれないというイライラに責任がある。

コーヒーを飲んだから眠れない。つまりコーヒーのせいで眠れないという他責。

ここを自責で読めば、コーヒーを飲んで眠れないのは、イライラという感情のせいではなく、自分が選んだという自責。だから、解決する方法にコーヒーを飲むのを選ぶのも自分、他の方法を選ぶこともできるよと。

自責は厳しい

自責というのは、とても厳しいですね。
それでも、自分で責任をもつということは、どんな選び方も出来る可能性を語っています。

ある方から、

>短期的利益で条件づけられた習慣は、長期的には不利益をもたらし、本人を苦しめる結果となる

>というイメージを持っていますが、
>アドラーの「勇気づけ」というカウンセリングの場合、このようなケースではど
>のように行うのか・・・を知りたかったのです

この行動を選んでいるのは、自分であり、その選択が自分にとってこまっているのならば、『変えられる』ということだわね。

いつもの決まったパターンで、
仕事がトラブル→イライラ→コーヒーがぶ飲みが、自分にとって便利な方法であると判明すれば、

仕事がトラブル→イライラ→散歩をしてみる

と、行動をかえてみることもあなたは選択で来ますよと。
また、イライラという感情を選択しないこともできますよ。と。

>アドラー流は、具体的な代替行動までコミットするのでしょうか…?

私はコミットしますね。
選んでいるのは自分なんだから、他の方法を選ぼうよって他の方法を一緒に考えます。そう、一緒に考える。相談されたら共通の課題であるのですから、一緒に考えることはできますね。

アドラーが、仲間による助言を是とするのは、認知行動療法で求める新しい認知を見つけるためなのではないかとおもっています。

課題の分離をし、
状況を整理し、

その上で、今までの自分の視点だけでは見つけられなかった
新しい視点での行動を一緒に考える。
認知行動療法の視点と同じであると思いますし、
認知行動療法ではわかりにくい、価値の軸(私には能力がある、人々は私の仲間だ:共同体感覚)をもった生き方になるのかなと考えます。

苦しいときには他責にしたっていいんだよ

アドラーは自責です、選んでいるのは自分。
だから変えられると。

でもね、でもね。
どうしても、いま、この時の苦しさが乗り越えられないとき。
また自分自身にもともと非常に厳しい人にとって、
自分を責めて、何も変えられず、かえって行き詰まってしまうときには、
ときに、他責にして心を日だまりにおいて時間をもらいましょう。

時間薬という言葉があります。

アドラー流派厳しい、どうしても飲み込めないときがありますね。
困窮してしまうときには、
ちょっと時間を貰いましょう。
ちょっとちょっとだけ時間を貰って、ほっとして、頭の大混乱をやすめてみましょう。

第一章 5)勇気づけ

5)勇気づけ

スマイルとパセージの大きな違いの一つに、勇気づけを出してくるタイミングもあります。スマイルは第三章で初めて出てきます。
第一章で子どもの行動を理解しようとし、正の注目負の注目、不適切な行動などを学び、第二章で聞き上手になろうとし、負の注目、罰、聴き上手ということを学び、その上で、第三章で初めて「子どもを勇気づけよう」という観点を学びます。

パセージでは最初から勇気づけがでてきます。
つまり、勇気づけはアドラー子育ての中心であること。そしてこの勇気づけはアドラーの価値である子育ての目標を踏まえれば、技術的な細々としたことより、ぐっと近い立ち位置なのかなと思います。つまり子育ての目標である1・私には能力がある、2・人々は私の仲間だを踏まえることをしっかりし、その表現をあれこれと学んで行くんだよというのがパセージのやり方なのかなと感じます。

勇気づけをはじめよう

1.適切な行動や適切な側面を探そう
2. 短所ではなく、長所に焦点を当てよう
3. 結果よりも、プロセスを重視しよう
4. 子どもの成長を認めよう
5. 他の子どもと比較しないでおこう
6.親子は仲間です。

なぜ勇気づけなのか、勇気づけって何?
勇気づけってなに?

アドラー心理学の子育て方は「勇気づけ」という言葉にあらわされるのではないかと思います。

さて、その前提として、アドラーを踏まえた、行動の目標、つまり子育ての目標をおさえておかなければなりませんね。

アドラーでは子育ての心理的な目標を2つあげています。

子育ての目標(行動面)
1)自立する、2)社会と調和して生きる
子育ての目標(心理面)
1)私は能力がある 2)人々は私の仲間だ

この2つの目標を達せられるように、子供に対して援助していくことが、勇気づけです。

行動面の自立するを達成する心理面のありようは「私には能力がある」という気持ちです。そして社会と調和して生きるためには、人のことを信じることが出来ることが必要で、「人々は私の仲間だ」と思えることが大事です。

人間関係、まず親子からですね。

第一章: -2)どんな場合に不適切な行動をする?

スマイルパセージ復習です。
第一章の子どもを理解するです。
1では、子育ての目標を学びました。
さて、つぎ2,3へと進みます(^^)。


2)どんな場合に子どもは不適切な行動をするか

不適切な行動をする子ども4つ

1)不適切と知らない

2)知っているけど、適切な行動を知らない

3)両方知っているけど、適切をしてもダメと信じている

 (勇気がくじかれている)

4)不適切な行動でのぞむ結果をえている

行動の原因ではなく、目的を考えてみましょう。
たとえば、ケンカしている兄弟。その原因は?と考えますね。
お兄ちゃんが蹴っ飛ばしたから、弟がおもちゃを取ったから。

どちらも原因ですね。

ただ、原因からは解決は生まれません。
目的を聞いてみましょう

弟:お兄ちゃんのもっているおもちゃを使いたかった

兄:このおもちゃで遊びたい。だから貸したくない

行動の目的がわかりましたね。

そこで二人に提案が色々出来ると思います。
ケンカという殴り合いの解決ではなく。
弟に、「お兄ちゃんのもっているおもちゃを貸してってお願いしたら?」と提案

お兄ちゃんには「弟におもちゃを貸してあげたら」と提案。
お兄ちゃんには他に、「一緒に遊んだら?」などなど、さまざまな解決法が浮かびますね。

原因じゃなく、目的を尋ねてみることで、ケンカという暴力によらない解決の糸口がみえるようですね。

 

 

アドラー心理学の難しさ

アドラー心理学の難しさ

 

アドラーが私のベースではあります。
これは、ずーっと昔、子育て時代にであった、アドラーでの講習などがスタートで。
岸見先生の基礎講座がベースです。スマイル、パセージも懐かしい。

  • ・嫌われる勇気
  • ・個人心理学
  • ・課題の分離(スタート)
  • ・共同体感覚(ゴール)
  • ・共同体感覚の3つの要素:自己受容、他者信頼、他者貢献
  • ・共同体感覚に価値を置く
  • ・縦の関係、横の関係
  • ・幸福とは
  • ・嫌われる勇気

アドラーの「嫌われる勇気」は読みやすい本です。

この嫌われる勇気という言葉は、「課題の分離」という出発点に立ち、他者の課題から降りるということで、「自由」を得るということにつながります。

・課題の分離(スタート)

バッサバッサと課題の分離をすることは、初めは抵抗感があるかもしれませんが、慣れると非常に便利で使い勝手のいい概念です。

『だれの課題なのか』ということは、顛末を引き受ける人の課題であるわけですから、顛末に関与しない課題からはおりればいいわけです。

・共同体感覚(ゴール)

この共同体感覚が、アドラー心理学で語るところのゴールです。

自由を選び、他者から嫌われることを恐れず、他者の人生をいきない、自分だけの道を生きる。

その上で、ゴールは『共同体感覚』にあり、三つの要素から成り立ちます。自己受容、他者信頼、他者貢献です。

・問われる価値

この共同体感覚の自己受容、他者信頼、他者貢献は、かなり『価値』を問われる問題だと思います。

・ここで、価値の前提となるのが、縦の関係、横の関係という人間関係です。アドラーでは横の関係を前提としています。親子であっても縦の関係ではなく、共同体を構成する一員としての横の関係です。横の関係があるためには、他者信頼があります。つまり、信頼と懐疑、どちらに価値を置くかということが問われるわけです。信頼とは自分の課題であり、他者がどうであっても無条件で信頼するということで、ここもかなり大きなハードルではあると思います。

・幸福とは

アドラーでのゴール、共同体感覚を前提として、『幸せとは(主観的な)貢献感である』とされ、承認欲求からの解放があり自由があります。

生きている意味の輝きの星として”他者への貢献”をかかげ、自由を選ぶとは他人の課題から降り、自分だけの道を生きるとするアドラー。

課題の分離まではストンと飲み込めても、この共同体感覚は自身の価値の軸を変え置くようなところもあり、なかなか難しい自分自身にとわれる課題だと思います。

カウンセラーという言葉の安易さに・・・

学び、というのは、本当に楽しい趣味だと思います。

私自身、勉強は趣味だと思っていますし、その趣味の延長のような形で、仕事がなりたっており、その仕事(鍼灸臨床)からフィードバックされるように、自らの学びが深まっていくことに喜びを感じています。

心理学的な学びは、アドラー心理学に軸足をおいています。
ただ、カウンセラーという立場になろうと思ったことはなく、そのあたりには
敬意をもって距離をおいていました。

でも、このカウンセラーという言葉が安易に使われる現状に、うううううむです。

そして、ふと、野田俊作先生の言葉に戻っている自分を発見しました。
以下は自分自身が書いたものですが、なんか納得なので、掲載しておきます。

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アドラー心理学を学ぶこと

アドラー心理学を学び、私の心理学的なアプローチの基礎になっています。

まあ、認定のカウンセラーになろうという気はなく、自分自身の生きる道の道標として

とても納得できるところなので、心の中に置いてあるという感じでしょうか。

私自身は天邪鬼です。そして自分が”協力的ライフスタイル”でありたいなあと

願っています。天邪鬼はなかなか素直に協力的ライフスタイルであることができません。

それでも、人として協力的ライフスタイルをいきたいと願っています。

願っていても、なかなか自分を変えることができないので、ときどき振り返り修正。

何年も長く修正をやっていると少しずつ変わって行けると信じているのです。

少しずつでいいと思っています。

自分の使い勝手のいいライフスタイルを変えることは大変。

だって、長年使いやすく使ってきたんですからね。

ただ、そのライフスタイルで困っていたり、ライフスタイルを変えたいと思ったら

いつでも変えられる。

そう信じています。

私は自分の幸せよりも、自分の周りにいる人の幸せのためにいきたい。

ついつい自分が使いたくないライフスタイルが顔を出しますが、

あ、違うなと感じ、修正。そんなことの繰り返しです。

神経症的策動について

 

さて、アドレリアンの野田さんのブログを読んでいたらこんな記事を見つけました

”「神経症的策動 neurotic maneuver」というものがあって、カウンセラーが自分の失敗をうまく言い逃れする技術だ。ある言い回しをすると、言い訳として通用する。どうして言い訳として通用するかというと、世間がそういう言い訳を許容するからだ。たとえば、患者さんが「この症状さえなくなったら、いくらでも働きます」と言うと、ある治療者は「早くよくなるといいですね」などと言って、「そんなことを言っていないで早く働きなさい」などとは言わない。そうして、神経症者は永遠に「この症状さえなくなったら」と言い続け、治療者は永遠に「早くよくなるといいですね」と言い続ける。こうして神経症者は非生産的な生活を続けながら、世間と、さらには自分自身とを、欺き続ける。そこに親などからの経済的援助や、あるいは社会保障がからむと、いわゆる二次的疾病利得が生じて、神経症が主たる収入源になってしまい、患者業はいつまでも商売繁盛することになる。”

人は気づかずこの言い訳を使ってしまい、聞いている方はなんとなく納得させられてしまいます。

患者さん;風邪の症状がいつもでて、身体が熱ぽいので仕事ができないのです

カウンセラー:風邪の症状がよくなるといいですね。そうしたら仕事ができますね

患者さん:はい、風邪の症状さえよくなれば、仕事ができます。私にはいつも風邪の症状があるし、

いつ風邪の症状が出てくるか不安なので、仕事は出来ないのです。

カウンセラー:そうですね。風邪が早くよくなるといいですね。

患者さん:はい、風邪の症状さえなければ働けます。ただ、仕事にいくと風邪を引くのではないかと思うので、職場にもいけません。

この方の「風邪」は、

  • 風邪を引いていれば仕事ができない
  • 仕事にいくと風邪を引くと思うと仕事ができない、
  • 風邪の症状がいつ出てくるか不安で仕事ができない。

つまり、風邪があってもなくても、仕事は出来ないという説明になっています。

問題は”風邪”ではないのですよね。

ですので、この風邪という問題を外して、”仕事”と自分はどう向き合いたいのかを

率直に考えてみなければ、いつまでも「風邪」というアイテムをつかって、

自分自身が仕事とどう向き合うのかというタスクを正面から考えることができなくなっています。

しかしながら、この状況にご自身が不都合を感じているのならば、

変えるときなのです。その時が来ているのです。

このアドラー心理学の考え方はとても厳しい考え方だなと思います。

そして厳しくも、人生を前に押してくれる考え方だと思います。

人生は短い、そして美しい。

私たちに許されている時間を、その美しく短い人生に輝きをもたせて歩んで行けたら

いいなあって思っています。