あれこれ思うエッセイ集:,

医療と民間療法 2003/10/31

医療と医療ではないもの(民間療法)は、なにでわかれるのでしょうか?。

医家が色々な方法により診立て、その上で治療方針が選ばれ施されるもの 医療であり、診立てがなく、この方法(手段、摂取するもの)などが、特定の症状 に効くとされ用いられるものが医療でないもの(民間療法)と、私は考えています。

つまり、診立てるということが、あるか、ないかで分かれるのではないかと思っています。

診立ては、西洋医学であれば、様々な検査、そして医師による診察などを経て、 結論付けられますし、東洋医学の世界であれば、「四診」という、望聞問切の四つの診察が基本になります。

西洋医学でも、患者さんをその手順にそって診立てることなく、治療が施されれば、医者がやっていても、医療ではない民間療法的なものだと私は思っています。
これ、ちょっと考えると、あちこちで参見していますよね(^^;)。

たとえば、その人自身をじっくり見ることなく、こういう病名がついているのだからこの治療なんて行われるのであれば、それは民間療法チックだと私は思います。たとえば悪名高き抗がん剤の治療も、ご本人をよく見て、 それが有効であるとの診立ての元に用いられるのならば、医療ですが、 まあやってみましょうかなんていうのは、民間療法チックです。

ある人が、乳がんの手術後、ドクターからホルモン剤を飲むっていうのもあるけど 僕はよくわからないから自分で決めてと言われたそうです(^^;)。これ 民間療法チックですね。

東洋医学の世界でも、民間療法的な医療ではないものと、医療的なものと混在して います。ただ、目の前の人を個別具体的にみているのか、見ていないのかが、医療と そうでないものを分けている大きなポイントではないかと思います。

ここを踏まえて、様々な出来事をながめていると、面白いことに気が付くことが出来ると思います。

その療法やモノが効く効かないと、医療である、医療でないはイコールでは ないと思っています。つまり、同じものでも、医療的に用いられることもあれば 民間療法的に用いられることもあると思うのです。

たとえば、葛根湯。医療的に用いることも出来ますし、民間療法的に用いられてい る場合もあります。医者にいって、医師が、これは確かに葛根湯の適応だと診断し処 方されれば、医療的であるでしょうし、「風邪に漢方葛根湯(^^;)」と、その風邪が、 どんな風邪であるのか、本当に葛根湯症なのかということを見極めずに、風邪だから 葛根湯と処方されれば、医師が処方しても、それは民間療法であろうと私は思います。

医療であれば、「診立て」が必ず入っていますから、葛根湯が効かなかった場合は、証が違ったのか、時期が遅かったのか、量が足りなかったのかなどの検証がなされ、葛根湯が効かなかったということが、ヒントに為り、次のステップに移れます。

診立てがなく効かなかった場合は、効かない理由がわかりませんから、それが情報 としては役立ちません。じゃあ次の手段(^^;)ということになるでしょう。単なる試行 錯誤になります。

みのもんたの、○○が効く!ってのは、あくまでも民間療法的です。 効く事もあるでしょうし、効かないこともある。診立てがないので、 検証はできません。

私は、民間療法がいけないとか、医療でなくてはいけないと言っているのでは ありません。その区別はしておいたほうが、サービスを受ける側として、わかりや すいし、利益があるだろうと考えているのです。医療を受けているつもりで、民間療 法を受けていると、とんでもないリスクを背負うことがあると思いますので。医療な ら医療の、民間療法なら民間療法の位置づけがあり、取れるリスクがあり、メリット もデメリットもあります。

診立てなく民間療法的に用いる時の重要なポイントは、その療法やモノに傾きが大きくないことだと私は思っています。

たとえば、食べものの場合。みのもんたが、トマトがいいのよーと言うことがあったりするとします。トマトって冷やすものなんですよね。これをミノさんが言っていたと信じて、バカスカバカスカ摂取すると、冷えタイプの人は体調が悪くなります。

大きな傾きというのは、このように、大きく偏った性質をもつものということです 熱に大きく傾いた性質をもったり、冷えに大きく傾いた性質をもったりということです。他にもいろいろな傾きが考えられます。

民間療法的に口伝されているものは、そういった意味で大きな傾きがなく安全なものが多いと私は感じています。

また、○○の症状に××と言われるような、感じのものは、 ○○の症状の傾きが割合とはっきりしているものが多いのではないかとも 思います。たとえば、やけどにアロエ。やけどという熱に対して、アロエという冷えのものを持ってくるのが、よいとよく言われるのは、なんだか理解できる 感じがしますね。

経験というのは、この診立てを大きく助けるものなのでしょうねえ。
ある人が、同じレントゲンを見ても、新米医師には見つからない病変をベテラン医師なら見ることが出来ると仰っていました。つまり、 診えないんですよね。診立てるといのは、見る気になっても難しいし、 ましてや、見る気がないものには、まったく見えません。
そうすると、検査などのわかりやすい診断補助技術がどんどん求められる というのも理解できるところですね。

患者さんと、こないだ面白い話をしたのでご紹介します。

とある皮膚科の先生は、絶対に患部をみないという噂があったので、その方はこないだ本当かと思って、ちょうど湿疹が出来たから言ってみたそうです。 そうすると、噂どおり、患部は見ずに、薬を出してくれたそうです(^^;)。

まあ、ベテランだと、見ないでも話だけ(つまり問診という診察)で 診立てが出来るともいえるのでしょうけど、皮膚科で患部を見ないという 診察を放棄したとも言える状態は、限りなく民間療法に近い皮膚科という 言い方も出来るかもしれません。

東洋医学は経験といわれますが、東洋医学でバイブルと言われる本や名人といわれる人が残した本の中では、必ずと言っていいほど 丁寧に四診をしなさいということが繰り返し語られています。

経験というのは、沢山の歴代の治療家たちの経験の積み重ねですが、 医療として存在するからには、きちんと診ることをなされた上で、論理に そってひとつひとつの症例は語られ、その積み重ねが経験だと思っています。

経験というものにあぐらをかき、目の前の患者さんをきちんと診ることがなければ、これも限りなく民間療法に近い東洋医学ということが出来ると思います。歴代の経験だけをたよりにし、目の前の患者さんを診ることができなければ、ダメなんですね。

私が民間療法的な部分のお話を聞くのが大好きなのは、そういったお話には、医療 的な診立ての視点はないけれど、ある傾きがはっきりしているので、効果があることが多いのだろうなということです。お話を注意深く伺ったり、実際にそのものを見た り考えたりすると、傾きがどんなものか明白に為り、医療的に考えることができるの です。つまり、磨かれざるダイヤの山だったりするのです。