あれこれ思うエッセイ集:

気ってなんなのでしょう

気ってなんなのでしょうか

よく耳にしますね。ことに東洋医学では気の概念が治療の中心です。

私は、存在する物すべてが気であると思っています。目に見えないもの、見えるもの、触れることのできるもの、できないものすべてが気です。

人間の身体も、ただ一元の気でできています。そしてその気でできている人間の身体には、気の密度に濃淡があり、また気の流れという運動性があるわけです。見える部分の肉体は気が凝縮してあつまったものであり、当然見えない部分もあるわけです。そして気の運動性に方向性があることを発見するところから生まれたのが経絡ではないか、そしてその流れの中の淀みや特性のあるところが経穴ではないかと思います。

密度の違いや流れ方の違いはありますけれど、生きているという事はまさに、まるごと一つの生命として生きているわけですから当然、気も一元のものとして把握しなければなりません。この一元の気を、よりよく理解するために、機能の側面と物質の側面に分けて考えることがあります。分けてはいますけれどもこれも、一元の気の姿をよりよく理解するための方便なんです。この他にもいろいろと分けることによって気を理解しようとすることがありますけれども、これらも同じ一元の気の姿を語っているものであるという事を忘れないようにしないといけません。

人間は、生まれながらにして両親から受け継いだ先天の気をもち、また日々の運動や食事から得られる後天の気をあわせることによって、身体と心の器を大きくしたり、バランスをとったりしながら、日々生きています。このときに、気の生成が上手くいかず器が小さくなったり、気が偏ったりよどんだりすることによって病気が生まれてきます。

このことから、治療を行うということは、全体の気の量を増加させることと、気の偏在を調えることという二種類のことが柱になってきます。

鍼灸治療では特にこの気の偏在を調える方面で、秀逸な治療効果をあげることができます。

私は気ということ以上のように考えておりますので、気が存在するか否かといった議論に対しては、少しとまどいを覚えます。そのような方が語られる気というものは、主に気を意識でコントロールして放射できるかどうかということを意味しているように思えるからです。

私は、あくまでも気というものを生命そのもの、一元のものであり、密度の違いによって起こる流れのあるもの、とこのように捉えているわけです。